個人的に大変悲しく思ったのは、13日に作家の内田康夫さんが亡くなられたことでした。病気療養のため執筆中の浅見シリーズ作品を作者自身が完結させるのが難しく、ファンクラブの合作による完結編を準備中というニュースを聞いて心配していたのですが・・・浅見光彦と兄の刑事局長兄弟が、通之進様と東吾さん兄弟に共通するイメージもあって、かわせみファンで同時に内田ファンという方も多かったですよね。浅見や信濃コロンボなどの人気連作シリーズ以外の初期作品にも力作がありました。
弱小出版社勤務の私としては、内田さんが自費出版の作品でデビューされたということも、非常に親しみを感じていました(もちろん、いつの日か内田作品やハリー・ポッターや、うんこドリルのような、誰もまだ知らないお宝作品が突然我が社に持ち込まれ、空前の大ヒットとなって社屋一新・給与倍増・・・を夢見ているわけです)。
朝日新聞24日の文化文芸欄に、赤川次郎さんが書いていた追悼記事がとても良かったです! 多大な読者に愛され出版界に大きな貢献をしながら文学賞とは無縁のミステリー作家の同輩として、「大人の美学をサラリと貫いた」作家であったと賛辞を贈っておられました。赤川さんの所に来た女性読者からの手紙に「私はこれから内田康夫さんの作品を読むことにしましたので、先生の作品は卒業させていただきます」と書かれていたというエピソードも大笑いでしたが、確かに中学高校生時代に赤川作品を愛読し、大人になって内田作品のファンに移行するという層も厚いかもしれません。
さて今月は我が弱小出版社も春を迎えて「ホントに歩く中山道」の刊行開始となりました。東海道ウォークマップに続き「今度は中山道を是非」という声が前々からあったのにお応えして、東海道五十三次と京街道(五十七次)・佐屋街道・姫街道までがようやく完了して、中山道シリーズを始めることになったわけですが、調査・編集・印刷コストと売れ行きを較べてみれば、社屋一新給与倍増には程遠いのは一目瞭然(泣)ですけれども一同頑張っております。
この中山道シリーズは、東海道シリーズとは逆に、西から東、つまり京都三条大橋から日本橋をめざす作りになっているのが他社マップと違う所です。東海道で京へ上り、帰りを中山道でというコンセプトで、これは偶然ですが、平岩先生の隼新八シリーズの東海道・中山道と同じです。改めてこの二作を読み返し、街道初心者にうってつけの作品だなぁと思いました。
かわせみシリーズには、「春」のつく作品は多数ありますが、「春」が「初春」のことを指しているものも多いですね。
その中で『春風の殺人』という、明治編の作品は、まさに今の時期にぴったりで、江戸から東京になった首都の花の名所がいろいろと出てきます。
↑は、三代広重の「東京名所第一の勝景・墨水堤花盛の図」ですが、冒頭に登場する麻太郎・源太郎の周囲も、こんな感じだったのでしょうか。
もっとも、バーンズ先生と同じく花より団子のほうな私は、物語の中に出てくる「泉谷」という料理屋が気になって、どこかモデルの店があるのかなぁ等と思ったのですがよくわかりません。京都には「泉仙」という「鉄鉢精進料理」で有名なお店があり、その系統で「泉◎」という料理屋もいくつかあるみたいですけどね。
『春風の殺人』は、タイトルから連想されるような加害者vs被害者という殺人事件ではないのですが、誰ひとり幸せにならない非常に苦い後味の作品です。背景が春爛漫、満開の桜景色であるだけ一層、周囲の利己主義と興味本位な世間の目に振り回されて死に追いやられる芸者の哀れさが際立ちます。昔捨てた子を探す親、候補者が二人いてどちらが本当の子か、というようなストーリーは、江戸編にもいくつかありましたが、いずれもハッピーエンドには至らなくても、もう少し情感のある、救われる終わり方でしたよね。
このお話で一つ気になるのは、死んだ八重丸に対して、梅千代のほうがよくわからないまま終わってしまっていることです。もしかして、本当の娘は梅千代のほうだったのか? 彼女の真意は何だったのか、最後にもう一度登場させてほしかった気がします。
前にも書きましたが、明治編になってから人生の苦さ・不条理さが色濃くなっているようで、作者の意図的なものか無意識のうちかはわからないのですが、これもその典型的な一つだと思います。
それと同時に、大河ドラマで一挙に知名度を上げた井伊直虎に限らず、この時代実質的に女城主の役割を果たしていた女性はもっといたんじゃないか、そういう女性たちについても知りたいと思っていたところ、この二つの問いに同時に応えてくれる本がみつかった。これはもう読まねば。
『かたづの!』の作者、中島京子さんは映画化もされた『小さいおうち』での直木賞をはじめ、泉鏡花文学賞・中央公論文芸賞など、数々の文学賞受賞を誇る作家だが、小説すばる連載後2014年に出版されたこの『かたづの!』も、第三回河合隼雄物語賞・第四回歴史時代作家クラブ賞・第二八回柴田錬三郎賞を一気に受章したすごい作品である。
ヒロインは三戸に拠点を置いた南部家の支流、根城南部(八戸)氏の第21代当主清心尼で、夫であった20代当主南部直政の死後、江戸幕府より正式に女城主の座を認められた。江戸開府から大坂の陣が始まるまでの出来事で、戦国時代には実質的なものを含めればかなり存在したと思われる女大名・女城主に対し、江戸時代の女城主はこの清心尼が唯一だということだ。
家中の男子が次々と亡くなり、風前の灯となった家の存続のため女の身での城主という形で時を稼ぎ、できる限り戦を避けて血脈を繋ぎ、一家の生活を支えていくために苦労するという展開は、井伊直虎の物語と共通点が多い。直虎にも「井戸」というファンタジー要素がちょっとあったけれども、この物語では、最終的に家が遠野に移るということもあり、民話に出てくるようないろいろな動物や鳥・蛇などが登場して人間と交流する。ファンタジー好きはハマるに違いない。
タイトルの「かたづの」もそのうちの一つで、片角(一本角)の羚羊、「黒地花卉群羚羊模様絞繍小袖」という衣装にその刺繍がされており、今も南部の宝物館にあって数年前東京でも展示されたという。
『かたづの』の中でもちょっと触れられているが、南部一族の中に九戸政実という武将がおり、先日のNHK=BS「英雄たちの選択」に取り上げられていた。
もともと、南部について情報を得るのならこの人、とチェックしていた、高橋克彦さんが『天を衝く』という小説で、この九戸政実を書いており、高橋さんが登場するかと期待していたが、番組に登場していたのは、安部龍太郎さんのほうだった。この人も『冬を待つ城』という作品で、政実を書いており、こちらのほうが10年以上新しいためかもしれない。こちらはまだ読んでいない。
『天を衝く』のサブタイトルは「秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実」というもので、NHKの番組もだいたいそういった趣旨であり、それに九戸党の本拠となった「山城」というテーマが加わったものだった。九戸政実は「歴史好きな人でも、この人を知っている人はそうそうはいないですよね」と磯田道史センセイも放送でおっしゃっていたように、かなりマイナー(南部藩という存在じたいもかなりマイナーだけど)であるが、男性の血を沸かせる何かがあるとみえて、高橋・安部両氏のほかにも、けっこう取り上げている男性作家は多いようだ。
あくまでも秀吉に対抗し、反乱者として処刑される九戸政実と反対に、秀吉に恭順政策をとり小田原攻めにも参加した宗家の南部信直は、政実の引き立て役になってしまっているが、『かたづの!』の中では、信直の嫡子利直が、分家を圧迫する宗家としての敵役になっている。同じ家中ではあるが、「直虎」での、今川家と井伊家のような関係になっていて、ヒロインの夫や幼い息子の死の陰で暗躍したように描かれている。
ヒロイン清心尼は南部信直の孫(娘の娘)であり、祖父信直については、家中の反乱を押えて南部家を存続させた功労者として描かれているが、叔父姪の間柄になる利直のほうは終始、主人公グループとは敵対することになる。しかし九戸政実と違って、表だった闘争は起こさず、遠野へ追いやられる結果になっても、辛抱の末に実質的な勝利を得ることを示唆したエンディングとなっている。終盤、死んで金の蛇に姿を変えた叔父利直と、ヒロインとのやりとりは圧巻である。
引き立て役・敵役の南部信直⇒利直系も、この人々がいなければ南部家は存続しなかったわけだし、こちらの視点からの物語も読んでみたいものである。
舞囃子「弓八幡」【喜多】 佐藤陽
舞囃子「西王母」【宝生】 金森隆晋
舞囃子「桜川」【金春】 柏崎真由
狂言「膏薬煉」【和泉】 シテ(都の膏薬煉):野村万之丞 アド(鎌倉の膏薬煉):上杉啓太
能「安達原」【観世】 シテ(里女/鬼女):武田宗典 ワキ(阿闍梨祐慶):野口琢弘
ワキツレ(同行の山伏):御厨誠吾 アイ(能力):河野佑紀
といえば、こちらのご常連さんは例外なく、畝家の源さんの話に決まってると思いますよね。
いやいや、それが、他にもいたんですね。父源三郎に息子が源太郎。
最近の意外なベストセラーといわれる、『君たちはどう生きるか』の作者、吉野源三郎氏と、その長男でジャーナリストの源太郎氏の話です。
『君たちはどう生きるか』の原作が刊行されたのは昭和12年(1937)。日本が戦争に向ってまっしぐらに進んでいた時代・・・と今でこそ、私たちは客観的に言いますが、当時を生きていた庶民たちはどんなふうに「今」をとらえていたんでしょうか(そして、私たちの孫や曾孫たちは、2018年を振り返ってどのように言うのでしょうか?)
昭和12年、この年の6月、林銑十郎内閣に替って発足したのが近衛文麿内閣。そして7月には盧溝橋事件が起こり、日中は果てしない戦争に突入します。「非戦思想」は糾弾を受けるようになって、キリスト教関係の本などが発禁処分となり、東大の矢内原忠雄総長も筆禍事件で12月に退官に追い込まれます。
今月の文藝春秋誌上で吉野源太郎さんが池上彰さんと対談していますが、源太郎さんによれば、『君たちはどう生きるか』は、「投獄され、自殺まで試みた父が、また検挙されるかもしれない・いずれ自分の命はないかもしれない、という恐怖を抱きつつ、命がけで生み出した物語」だったと語っています。
私は今回の漫画版は未読ですが、原作は小学校高学年の頃に読みました。自分の知らない戦前の話ではあったけれど、主人公の年齢が近いこともあって興味深く、物語に引き込まれて読んだ記憶があります。しかし、そのような「命がけ」というような雰囲気は感じなかったし、左翼とか思想とか検挙とかいう話とは無縁の、とても基本的な古今東西誰もが共感する価値観、でもその価値観に沿って生きる事はなかなか困難、というような事がわかりやすく書かれている話と解釈していたと思います。
そこが池上さんの言う「軍国主義的な価値観とは違うところで、良い人間とは何か、人としてどう生きるべきかを問い直すためにギリギリの線で表現している」努力の成果だったのですね。
ちなみに、池上さんは、やはり小学校高学年の頃、珍しくお父さんから勧められてこの本を読んだそうです。私は何故か、学校の図書館で借りたこの本を親に隠して読んだのですよね。当時、読みあさっていた岩波少年文庫や箱入りの講談社名作全集とか、少女小説、子供向けミステリーのようなものは、普通にその辺に置いたり妹と交替で読んだりしてましたが、これはカバンに入れておいて一人の時にこっそり読んだと思います。
あまりにも「良い本」で気恥ずかしいような気持ちだったのかもしれません。
「そんなに良い本を読んでいるのに、なぜ・・・」と生活態度について親に小言を言われるかもしれないという警戒心もあったかも。
池上家と比べると、男の子と女の子の違いというのもあったかもしれない。あまりにも人生真っ正面みたいな本を女の子が読むのはおこがましいような・・・人前では女の子向けというジャンル(若草物語とか赤毛のアンとかね)を読んでいたほうが、すべて無難におさまるというような無意識の計算があったのかなぁ。今の子供たちはどうなんでしょう。
実は、この話はもっと前にUPして、月末の談話室は、別に何か季節のかわせみ物語を探すつもりでいたんですが、「二月は逃げる」であっという間に日がたってしまい、これを流用してしまいました。
全然「かわせみ談話室」になってないじゃないかと、あちこちからツッコミが入りますよね~~
せめて、畝家の「父源三郎と息子源太郎」の名場面でも探すことにしようかな。
お勤めで留守がちの源さん、案外息子とのツーショット場面は少ないのですよね。
どのお話だったか、庭で源太郎が素振りしているのを、縁側で源さんが立って眺めているというシーンがありました。ごく何でもない、ストーリーにも関係しないシーンですが、こういう場面がさっと挿入されていたのが、江戸編の良いところでしたよね。
源太郎が誕生したときの、みんなの大騒ぎぶりも懐かしい。
ツーショットではありませんが、横浜の先生がらみで源太郎と麻太郎が危機一髪!という話で、源太郎の守袋が落ちているのを見つけた源さんがハッとする所もすごく印象に残っています。
新聞を見ても、金子兜太氏死去のニュースと、あとは冬季オリンピックばかりで、今日がこの記念日であることに触れた記事は見つからなかった。
もともとはバングラデシュの祝日(その謂れは ↓ 参照)であるが、日本にも、池袋西口にこのレプリカがある。
http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_2.html
池袋は、そう度々行くところではないが、いつ行ってもこれに目を留めたり説明版を読んだりする人を見たことがない。いつもおおぜいの人が周囲にいるのだが、全くこの記念碑には気がつかずに煙草をふかしたり飲食していたり、自転車もゴチャゴチャに駐めてあって、せっかく設置されているのに写真をとろうと思ってもなかなかとれないような記念碑だ。
このような無関心こそ、母国語として日本語を持つ日本人が、いかに世界の中で恵まれた存在であるか、ということを如実にあらわしているのだと思う。
日本人が意識する言語問題といえば英語教育に関することばかりで、小学校から英語を始めるべきか否か、学校の英語教育が間違っているからいくらやっても英語が話せるようにならない、英語コンプレックスをどうやって乗り越えるか、そんな話ばかりだ。
「日本人は水と安全はタダだと思っている」と言った人がいたそうだが、日本人は「水と安全と母国語を維持するために、苦労が要るとは考えたことが無い」ということだろうか。
自分達の外国語習得には敏感だが、海外で日本語学習のニーズが広がっていることには鈍い。
学習塾で中高生に英語を教えれば、そこそこのアルバイト収入になるのに、海外からの留学生に日本語を教える仕事は、ほとんどボランティアに近い状態だという。
地球上に日本語や日本文化への理解を広めていくことは、防衛費に予算をつぎ込むよりも、長い目で見ればずっと日本の安全保障に役立つと思われるのに。
バングラデシュが舞台の物語というのは、図書館で探してもなかなか無いが、ようやく『リキシャ・ガール』という児童書が見つかった。作者はミタリ・パーキンスという、インド生まれで現在は米国在住の女性作家。彼女の父はバングラデシュで少年時代を過ごし、彼女自身もアジア・アフリカを始め世界中いろいろな所で生活した経験を持つところから、異文化への架け橋となる児童書を書き続けているという貴重な作家である。
この『リキシャ・ガール』の中に、ベンガル語の美しさを国中で祝う「国際母語の日」の様子が描かれている。
世界でも最貧の国という印象の強いバングラデシュであるが、人々はアートを深く愛し、貧しい中でもサリーや装身具・刺繍・「アルポナ」というデザイン画(?)など特に女性たちの手によって素晴らしい作品が生み出され、音楽やダンスを楽しむ生活がある。
女性たちは貧しさと男女差別という、二重の苦しみの中にいるが、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の小口融資システムのおかげで、起業して経済力を身につける女性も少しずつ増えていく。このあたりは、日本の朝ドラとも共通する感じだ。
ミタリ・パーキンスと同様、ベンガル系の両親を持ち、欧米人と結婚して欧米で作家生活を送る女流作家といえば、ジュンパ・ラヒリがよく知られている(インド系には彫の深い美男美女が多いが、作者写真を見るとこの人も大変な美女である)。邦訳作品も数多く、日本のファンによるアマゾンレビューや読書ブログなどもたくさんあるようだ。
長年欧米に住んでもアイデンティティは完全にインド(ベンガル)である親世代と、英語で教育を受け英語で仕事をする子供世代の葛藤という、ラヒリ作品によく見られるテーマは、日本人の、地方で家を守る親と都会に出た子供という関係にも共通のものがあり、理解や共感を持ちやすい。しかし、ベンガル語対英語という問題は、方言や訛りだけの違いの日本に比べてはるかに大きなものだ。
ラヒリは英語で発表した多くの作品で非常に高い評価を受けているにもかかわらず、自分にとって「ベンガル語は母、英語は継母」だと書いている。そして自分には本当の祖国、本当の母国語が無いという思いにとらわれている。
普通ならここで、実母であるベンガル語に回帰し、インドやアジアについて、より深く関わっていこう、となると思うのだが、彼女の独創的な、というか特異な所は、イタリア語という第三の新しい言語への挑戦なのである。もちろん大変な苦労ではあるが、ラヒリは「二つの母語から離れた自由」を味わいながら、ローマに移住しイタリア語でエッセイや小説を書き始める。この経緯が書かれているのが『べつの言葉で』という2015年に出版された本である(原書は2014年)。
「完全な母国語である日本語」で出来上った脳で「完全な外国語である英語」の学習に苦労してきた身としては、はっきりいって、そこまでラヒリを突き動かす思いというのがよくわからない。しかし、言語というものは人間そのものなのであり、言葉は単に人間が「使う」ものでなく、人間は「言葉で出来ている」ということなのかなぁと思う。
http://www.setagaya-ldc.net/program/394/
昨年末から今年1月にかけて、4回に分けて行なった「世田谷区一周区境ウォーク」(2017年11月2日のブログ参照)に、このプロジェクト主催者の一人である川上恭輔さんが参加して下さったご縁で行ってきたのだが、実際に歩いて体験したことが、数値的にビジュアル化されていて面白かった。
私たちはそれまで、川上さん達とも面識はなく、「はかる」プロジェクトのことも全然知らなかったので、メールで区境ウォークの申し込みを受けたスタッフが、「はかる」プロジェクトを「はるか」プロジェクトとうっかり読み間違え、「はるかプロジェクトって何だ? はるかっていう名前のアイドルのファンクラブか何か? なんか怪しげだなぁ~」などと言いながら、当日初めてお会いして、建築設計などにたずさわる若いアーティストたちが行っている「"はかる"ことから街の良さに触れるきっかけを作り、街を再発見するプロジェクト」なのだと知り、おおいに共鳴したのだった。
写真でスペースの真中に帯状に下がっているのは、世田谷区と隣接する市・区のそれぞれを町ごとに両端に記したもので、長い境界を持つ町ほど、大きな文字で町の名前が書いてある。世田谷区側は一つの町が長い境界を持っているのに向こう側の町はいくつもの町が並んで境界となっている所もあれば、その逆、あるいは両方とも同じような町割りになっている所など、文字の大きさで一目瞭然。
世田谷区上北沢と杉並区上高井戸は共に長い境界線を共有している所で、これは北西に伸びる形で開発された北沢用水に沿って、世田谷区が杉並区の間に嘴のように入り込んでいることから、複雑に曲がりくねった境界が出来、総距離が長くなったものである。
同じような境界は世田谷区の東側にもあり、本来、世田谷区と大田区の境界である所に、目黒区緑が丘がクサビのように細長く入り込んでいる。これは呑川流域が細長く目黒区となっているためだ。
このプロジェクトでは、夏休みに小学生を対象として、実際に自分たちの歩数などで距離を測り地図を作成してみるワークショップもやっているそうだ。"はかる"ことで発見した様々な現象について、さらにその理由を考察したり歴史的経緯を調べるなど、子供たちにとっても大変貴重な体験になるだろうと思った。
「巴」【観世】 シテ(女/巴御前):佐久間二郎 ワキ(旅僧):御厨誠吾
アイ(里人):大藏教義
「車僧」【宝生】 シテ(山伏/天狗太郎坊):高橋憲正
ワキ(車僧):村瀬慧 アイ(溝越天狗):宮本昇
先月の月並能に続いて2回目の「車僧」、同じ宝生流だが今度は赤頭でちょっと雰囲気が違う
こちらのほうがデフォルトの演出?
狂言「寝音曲」【大蔵】 シテ(太郎冠者):善竹大二郎 アド(主):善竹富太郎
展示室の「作り物」特集がすごく面白い。レジメも充実していて無料で頂けるのは有難い限り(まぁ貧困老人世帯にもかかわらず、大分お能にはつぎ込んでるから、このような所で回収せねば!)
新春のかわせみ物語は数多いですが、今月は『初春夢づくし』を読み返してみました。とてもハートウォーミングで大好きな一篇です。江戸編の中ではかなり最後に近いものですが、オール讀物に掲載されたのが平成14年の正月号のようなので、もう十数年前になるのですね~
おるいさんの母方について新しい情報が得られるのも興味深いですし、本筋とは直接関係ない細かいシーンも生き生きと描かれています。
花世ちゃんのお琴を聞きながら麻太郎は居眠り、源太郎は起きていた、というのもこの話だったんですね。花世の日頃の稽古ぶりを考えると、千春ちゃんの「とてもお上手なのに・・・」という台詞は、千春的ポジティブシンキングの割合が高いといえそうですが、眠気を誘うのはむしろ上手な演奏という事もあるので、案外上達しているのかも。あるいは源太郎が居眠りしなかったのは、間違えないかどうかハラハラして見守っていたのか、という可能性もありますが。
おるいさんとお千絵さんの、女の友情のシーンも好いですね。お互いの身内に関することは親しい友人でも言いにくいという気持ちは現代も変わりませんが、そこをあえて、不要な気遣いをせずに率直に伝えるべきことを伝える。こうした信頼関係のある友人がいてくれるのは、いつの世も本当に貴重なことです。
そしてまた、恋女房たちのトラブルを解決するのは自分達だと張り切る東吾さんと源さんが可笑しい。当事者のお佐代さんも役者の小山三も分別のある人間だったわけだし、おるいさんとお千絵さんに任せておいても結局は解決したものと思われますが、物語的には亭主たちの介入でうんと面白くなった・・・いや長助親分だけは気の毒に、全く貧乏くじでしたがねぇ~~(^o^)
是非とも映像化で見てみたい話でもあります。お佐代さんには、黒木華ちゃんなどピッタリではないでしょうか。小山三役は、モテモテのイケメンだが誠実な性格、というだけならいろいろいそうですが、役者を演ずるとなるとかなり限られますね。舞台姿とか様になってないとマズいしね。やっぱり歌舞伎界からの起用になっちゃうかなぁ。
ところで、お能は最近少し見るようになりましたが、歌舞伎は2回くらいしか見たことがなく、妹背山婦女庭訓の求女といわれても全くピンと来ないので、画像検索したところ、なんと平成叛NHKの東吾さん:橋之助(当時)さんの求女(写真右)が見つかりました。平成6年8月の舞台だそうです。橘姫(写真左)は中村浩太郎さん、お三輪(写真中)は中村福助さん。
求女は実は藤原鎌足の子、淡海公不比等ということらしいですが、お能でも「海士」が淡海公関連のお話ですが、かなり雰囲気違いますねぇ。
今年の寒梅忌読書には、『闇の歯車』を選んでみた。1976年に別冊小説現代に発表された長篇で、その時は『狐はたそがれに踊る』というタイトルだったという。別冊といえども長篇が雑誌一冊に一挙掲載されるのは珍しいことだったと、文庫解説の礒貝勝太郎氏が書いている。現在出ているのは2005年刊行の講談社文庫新装版で、作者死去までに至る詳しい年譜もついている。
「ハードボイルド時代劇」などと評されているように、時代小説といっても雰囲気は現代的で、登場する同心や岡っ引きも、かわせみや鬼平と違って、スーツの捜査官と所轄のベテラン刑事だったとしても全く違和感ない。剣の腕や人情味で捜査側が表に出るのではなく、あくまでも主人公は「闇」の側の人々で、追うほうは黒衣に徹しているのもかっこいい。
翻訳ミステリーや洋画も好きで詳しかったという藤沢周平のテイストがいっぱいで、長篇といっても一気読みできる長さなのが嬉しい。
これは映像化されてないはずはないだろうと思って検索してみると、やっぱりフジテレビ系で1984年に単発ドラマとして放映されていた。
仲代達矢主演・隆巴脚本で、無名塾・俳優座を中心のキャスト、作者の若い時代が投影されていると思われる元檜物師の佐之助と浪人清十郎はそれぞれ、役所広司と益岡徹が演じている。
昭和末期のドラマ化からちょうど一世代が経過したわけで、ぜひともリメイクしてほしいものだ。
1月第三月曜日は、米国の公民権運動指導者で凶弾に倒れたキング牧師の記念日。今年はちょうど彼の誕生日15日にあたっている。
だからという訳ではなく、たまたまなのだが、昨年の正月読書に「読んでみたい」と書いてから一年もたってしまった、『アラバマ物語』の続編『さあ、見張りを立てよ』をようやく読んだ。
まず最初の衝撃は、『アラバマ』のヒロイン&語り手であったスカウトの、兄のジェムが若くして心臓病のため突然死しており、『見張り』には回想でしか登場しないこと。これは作者自身の兄のことが反映されているようだ。
代わりに、『アラバマ』では存在感の薄かったアティカスの弟、医者のジャック叔父さんが重要シーンで登場するのは嬉しいが、ジェムの不在は『アラバマ』ファンにとってはあまりにも大きすぎる。
大問題となっていた「アティカスの変節」問題だが、私の読んだ限りでは「変節」とはいえないだろうと感じた。アティカスがKKKや人種差別主義者と同じ行動をとっているわけではなく、地元の付合いとして彼らと同席しているだけだからだ。
考えてみれば、『アラバマ』でも、アティカスは一南部人として普通に社会生活を送っていたのであり、彼が完全に白人優位思想から脱しているという記述はなかったのだった。
しかし、妻を早く亡くしたシングルファーザーとしてのアティカスが、教育についてはかなり自由な思想を持ち、子供も一人の人格として尊重していたこと、また何よりも、メインストーリーである黒人青年の冤罪を晴らす弁護活動を貫いたことの印象から、読者は彼が黒人公民権活動の活動家でもあるような錯覚に陥ってしまったのだ。
『アラバマ』はこのメインストーリーが感動的で、さらにそれが子供たちの視点から描かれているため非常に読みやすかった。『見張り』はそれに比べるとかなり読みづらい。成長してニューヨークでキャリアウーマン生活を送るスカウト(これも作者の実体験らしい)が、故郷メイコームに帰省して起こるいろいろな出来事と、過去の思い出が交互に出てくるのもややこしいし、子供時代は魅力の一つだった、スカウトのややエキセントリックな性格も、大人として見ると、ちょっと「引いて」しまう感じがある。とくに日本人読者にとっては・・・
ところが、もともと作者が本当に書きたかったのは『見張り』のほうだった、いや先に書かれていたのは『見張り』のほうで、それが編集者による助言の結果、大幅に改変されて『アラバマ』になったと言われている。詳細は不明だが、そうだとすると大変うなずけるのである。
さらに映画化によって、理想的ヒーローとしてのアティカス・フィンチ像が完成されてしまった。 あまりにもハマり過ぎたグレゴリー・ペックは、ある意味、罪造りだったかもしれない。
暮しの手帖社が翻訳出版した『アラバマ物語』を読んだ人は必ず覚えていると思うが、巻頭に作者ハーパー・リーとG・ペックのツーショット写真が載っている。
この写真で印象に残るのは、作者が何だか、とまどったような固い表情をしていることで、自然体で超格好よく写っているペックと対照的。それは単に、田舎で静かな生活を送っていた女性が急にスポットライトを浴びた緊張感のせいだろうと、ずっとこれまで思ってきた。
今、続編(というか実際には元祖作品?)の『見張り』を読んでみて、この作者の表情が腑に落ちた気がする。
G・ペックは数々の栄誉を受け、15年前に世を去った。晩年には度々大統領選への出馬も乞われていたという。この映画がなかったら、ちょっとだけ栄光が地味になっていたかもしれないがそれでも充分に一流の映画人としての生涯を送ったに違いない。
しかし小説については、作者のデビュー作が『アラバマ』ではなく、当初の構想どおり『見張り』のほうで出版されていたら、それは一南部女性作家のデビュー作として、映像化なども無縁な知る人ぞ知る存在、もし邦訳されたとしてもごく限られた読者にとどまっていただろう。
その代わり、作者はスカウトとアティカスの物語をその後も書き続けたに違いない。
初の黒人大統領が米国に出現した時、アティカスはすでにこの世の人ではなかったかもしれないが、スカウトは、メイコームの人々は、それをどう受け止めたか。私たちはそれを知るよし無く、代わりにベストセラーで「米国の良心」を代表する名作『アラバマ物語』の本とDVDを手にしている。
要するに作者が書きたかったのは、自分でもはっきりと整理することのできない、混沌とした思いだったのではないか。故郷の風物人々への深い愛と、決して抜け出すことの出来ない因習に対するいらだち。実母を早く亡した自分を「一人前の南部のレディ」に育てようとする叔母の俗物性に対する許し難い思いの一方で、叔母の家事や社交のスキルに自分は遠く及ばず、故郷で年老いていく父の世話も叔母に任せきりにしなければならない状況。自分は心を許して友人付合いをしているつもりなのに、黒人たちからは最終的に一線を引かれてしまうもどかしさ、等など・・・
そうした思いに揺れ動くスカウトから見ると、父アティカスの態度は偽善的に見えてしまう。アティカスの中には白人優位思想も残っており、急速な平等化は黒人自身のためにもならないという考え方だ。また南部人としての誇りも高く、連邦政府の介入は許しがたいという気持ちを隣人たちと強く共有している。
つまりアティカスの英雄的な冤罪弁護活動は、人種平等主義から出たものではなく、白人優位社会であろうと、冤罪は白人でも黒人でも許せないという、リアリストで誠実な司法人の姿勢だったのだ。あの弁護活動は、もともとの作者の大河のような構想の中での、一つのエピソードにすぎなかったのではないだろうか。
偽善者とは暮らせないという娘に向ってアティカスは言う。
「偽善者だって、この世界で生きていく権利はあるんだよ」
ラストの父娘の論争ははっきりいって読んでもなかなかわかりづらいが、最終的に父親への愛情を再認識したところで終っていることは安心できる。
タイトルの「見張り」とは、「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ」という聖書イザヤ書21章6節の主の言葉から採られたものだそうだ。
作中、スカウトの思いが綴られている。「自分を導いてくれる見張りが欲しい。そして、何を見たか一時間ごとに報告してもらいたい。ある人が何か言っても、実際に彼が言いたいのはこういうことだと説明してくれる見張りが欲しい。真ん中に線を引いて、こちらはこういう正義、あちらはああいう正義だと言い、違いを私にわからせてくれる人。」
子供時代のスカウトの「見張り」はアティカスだったのだろう。全幅の信頼を寄せることの出来る父の存在を当然として育った娘が、大人になって、親子でもわかり合えない部分があると気づくのは自然の成り行きである。そう思って読むと、この物語は黒人白人、米国北部南部というテーマを越えて、古今東西共通の、子の成長とその親の物語であるのかもしれない。
G・ペックも含め、『アラバマ物語』関係者はほとんど故人となってしまった。
3人の子役の中でも、ディルを演じた俳優はエイズで死去しているという。
ジェム役の子は10年ほど映画やテレビに出演したのち、芸能界を去ってビジネスマンとして活躍しているそうだ。
スカウトを演じたメアリ・バダムだけが今も女優として活躍中で、『見張り』の出版についても思いを語ったりしているのは嬉しいことだ。
そして、隣人ブー・ラッドリーを演じたロバート・デュヴァルが、今なお80代で活躍しているのはとても頼もしい。