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昨年に引き続き、お正月のお能は宝生能楽堂の「翁」、今年のシテは宝生和英さん。
その他「葛城」「車僧」と合わせて三曲というコスパは嬉しいが、番組の1ページに三曲となると、いつも入っている「演者の一言」のスペースがなくなってしまうのは残念。

昨年は確か狂言方が大蔵流だったのが、今年は和泉流? 

「翁」 シテ:宝生和英 千歳:佐野登 三番三:能村晶人 面箱:上杉啓太

「葛城」(小書:神楽) シテ:佐野由於 ワキ:福王和幸 ワキツレ:矢野昌平・村瀬慧
            アイ:山下浩一郎

「車僧」(小書:白頭) シテ:前田晴啓 ワキ:高井松男 アイ:河野佑紀

 狂言「酢薑」  酢売:野村萬  薑売:野村万之丞
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宝生月並能1月



おたま:さて今日は、ウォークマップ出版の風人社最寄り駅でもある小田急線の世田谷代田駅からスタート、代田八幡から廻っていくよ。

◇あっ、見て! 富士山だ! こんな駅前から富士山が見えるんだね。

おたま:代田は知られざる富士ビュースポットなのさ。昔はお江戸の中心からでも富士山が見えたんだから、もっと西のここらへんからは見えて当たり前だけど。

◆昔は邪魔になる高い建物もなかったし、空気も綺麗だったから、よく見えただろうね~~

◇環七に出るとすぐ、代田八幡の大鳥居が見えるね。


◆あれ、歩道橋からも入れるんだ。なんか中二階みたいになってて面白い。


おたま:大鳥居のほうは明治以降のものなんだけど、脇の鳥居は天明五年(1785)に作られた、世田谷区で二番目に古い鳥居なんだよ。一番古いのは狛江市との境にある氷川神社の鳥居で、これより百年以上古いけど。

◇茅の輪くぐりがあるほうの鳥居だね。


 
おたま:環七からは、北沢川緑道を通って代沢へ向かうよ。


◆緑道入口に、世田谷一周ウォークのお知らせが貼ってあるね♪


◇ここは元・北沢川だったの? この前、芦花公園の粕谷八幡へ行く時に歩いた緑道は烏山川だったよね。



おたま:そう、烏山川は烏山の鴨池が水源の、本来の川だったけど、北沢川は湧き水や細い流れを調整して、北沢村の人たちが作った農業用水だったんだ。

◆わ~、立派な入口だ。これ北沢八幡? でもここ、神社じゃなくてお寺だよね。

おたま:ここは淡島(粟嶋)の森厳寺。九品仏や豪徳寺と並んで世田谷区名所の一つだよ。もともとは、これから行く北沢八幡の別当寺だったんだって。

◆別当寺っていうのは、平岩先生の代々木八幡と、その隣の斉藤弥九郎のお墓がある福泉寺の関係だよね。

おたま:そうそう。森厳寺は結城秀康ゆかりのお寺らしいけどね、境内にある淡島堂の施灸が大人気だったそうで「淡島さん」の名のほうが有名だね。



◇ほんとだ、入口に「淡島大明神」の立派な石があるね。あっ、道標も兼ねているのね。「北ほりのうち・よつやみち、東あをやま、南ゆふてんじ・めくろふとう」文化十一年だって。 

◆世田谷区の道標って、祐天寺や目黒不動関係が多いよね。

おたま:「北ほりのうち」にも、妙法寺や高円寺の寺町が今でもあるよね。

◆西の行き先は書いてないの?


◇世田谷区の西・・・畑や草っ原ばっかりで何もなかったんじゃない?


おたま:調布市や狛江市の人に怒られるよ!



◆北沢八幡、お詣りの人がたくさんいる~~


おたま:ここは「七沢八社随一正八幡宮」といわれているからね。八八幡巡りも、ここから始めるか、ゴールにするかっていうのが本当みたい。

◇ふーん、ここがトップなの? この前の八幡山の「ザ・八幡」が場所も真ん中だし、トップなのかと思った。

◆あっ、ここにも富士見ポイントがあるんだね。樹と樹の間から、うっすらと見えるよ!

◇昔はビルなど勿論、家も少なくて、ここから見える富士山はさぞ神々しかっただろうね~


おたま:さて次は、茶沢通りでもいいんだけど、一つ西側の鎌倉通りを行ってみよう。
 

◆あ、キャロットタワーが見える。三軒茶屋ゾーンに入って来たんだね~

◇家庭幼稚園って幼稚園がある。珍しい名前だね。なんか昭和っぽい。


 
おたま:戦後、鳩山さんたちと一緒に活躍していた政治家で曹洞宗の僧侶でもあった広川弘禅さんが作った幼稚園だね。弘禅さんが亡くなった時、奥さんの志津江さんが急遽身代わり候補になってトップ当選して話題になった。この幼稚園も長い事志津江さんが園長をしていたけど、今はお嬢さんの静さんが園長らしい。

◇鳩山さんって、鳩山ユキオ?

◆ちょっと、おたま姐さんの歳考えなさいよ。鳩山一郎さんだよ~


◇一郎さんかぁ。ユキオの父ちゃん・・・


◆お祖父ちゃんだよ!!


おたま:(怒)くだらない事言ってる間に、太子堂八幡着いたよ! 

◇太子堂八幡? このあたりの町名も太子堂なんだよね。聖徳太子の太子?

おたま:この近くにある円泉寺っていうお寺がここの別当寺なんだけど、南北朝の頃からそこに聖徳太子の像を安置した太子堂があって、ずっと太子堂という地名になってるらしいよ。この八幡も古いらしくて、八幡神社っていうと八幡太郎義家が奥州征伐の行き帰りの途中で寄って出来たっていう所が多いけど、ここにはもっと前から石清水八幡を勧請した神社があり義家たちがそこで勝利祈願をしたと伝えられているんだって。もともとこの辺には鎌倉道があってね、太子堂と若林の境から、北沢と代田の境の道を通って鎌倉へ道が通じていた(さっきの北沢緑道にも、鎌倉橋というのがあるんだよ)、だから結構開けていたのかもしれないね。

◆若林っていえば、世田谷区で一番古いのが若林小学校って聞いたことがある。

おたま:よく知ってるね。明治維新のすぐ後、太子堂郷学所っていう学校がこの辺に出来て、それが今の若林小学校なんだ。



おたま:さ、次は駒留八幡だよ。烏山緑道と世田谷線の踏切を越えて行こう。

◆わ~細い路地がいっぱい! さすが世田谷って感じ~~でも、おたま姐さん、どの道を行くの?

おたま:駒留八幡は環七沿いだから、適当に向こうの方に進めばどっかで環七に行きあたるよ。

◆アバウトだなぁ~

◇広い通りに出たけど・・・なんか様子が違う、これ環七じゃなくて世田谷通りに出ちゃったみたい?

おたま:あ~もうちょっと右寄りに行けばよかったかもね・・・

◇え~ウソ! どうしよう、迷子になっっちゃたの? あと二つも残っているのに~~

おたま:大騒ぎするんじゃないよ、世田谷散歩ってのは、迷うのも楽しみの内なの!! 世田谷通りをしばらく右に行けば若林交差点で環七に出るよ。

◆あ~ほんとだ、若林交差点に出た。よかったよかった!

◇交差点を過ぎてすぐ、右手に空き地みたいなのが見えてきたね。あぁ、ここが駒留八幡の裏手なのか。

◆駒留八幡は若宮八幡ともいうって書いてある。

おたま:ここを建てたのは世田谷吉良七代、吉良頼康という人で、祀られている若宮というのは頼康の息子にあたるんだよ。

◇吉良といえば、忠臣蔵の吉良上野介を思い出すけど・・・

おたま:吉良家は、清和源氏の流れ、八幡太郎義家の傍流でね。

◆嫡流は義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝と続くけど、実朝が暗殺されて断絶しちゃったよね。

おたま:そうそう。まず分かれたのが新田家で、初代新田義重は確か為義の従兄弟になるんだったかな。義重の弟義康の系統が、何代か後に足利と吉良になる。そして吉良は更に西と東に分かれて、西が三河、東が武蔵に拠点を持つわけ。

◇そうか~、三河のほうが三州吉良、上野介の祖先だね。

おたま:うん。そして、これは案外知られてないみたいだけど、東西に分かれた吉良の間にもう一人兄弟がいて、この人は今川家の祖になったんだ。

◆へ~知らなかった! 今川義元・氏真が、足利家の血筋っていうのは聞いたことがあったけど、吉良上野介とも遠い親戚!

◇そういや、キャラもちょっと共通してるかも♪

◆なるほど静岡の今川を間に挟んで、愛知県の三州吉良と、関東の武蔵吉良ってわけね。納得!!

おたま:それで、関東に行った吉良のうち、数代あとの吉良治家という人が世田谷城を拠点に世田谷吉良家と呼ばれるようになったんだ。世田谷吉良家は後北条氏と婚姻関係を結び、七代目頼康の時が最も勢力を伸ばした絶頂期だといわれる。もっとも、頼康の次の代には、北条家が秀吉に滅ぼされて、吉良家も終わっちゃうんだけど・・・

◇若宮のお母さんを祀ったのが厳島神社なんだって。この小さなお社かな?

おたま:吉良頼康の話が出たからには、常盤伝説の話もしなけりゃね。世田谷区の区の花に指定されている鷺草は、常盤の化身とも言われているし・・・

◆常盤って、源義経のお母さんじゃないの?

おたま:もう一人の常盤、この人は、世田谷七沢の一つ奥沢の城主の娘で、頼康の側にあがり寵愛を受けていた。七沢の所で話題に出たけど、今の九品仏浄真寺のある所は昔、城だったんだよね。台地を九品仏川の低湿地帯が取り囲んでいる天然の城郭で、その湿地帯に鷺草が群生していたんだって。頼康が常盤を見初めたきっかけが、鷺の足に結ばれた常盤の和歌だったとか、いろいろエピソードの盛り込まれた物語があるんだよ。

◇へ~面白そう。どんな話なの?

おたま:まぁ大ざっぱにいえば、不倫冤罪の悲劇っていうか、日本版オセロー? 常盤は世田谷のデズデモーナってところかね。常盤への寵愛をねたんだ側室たちが、常盤は家臣の一人と密通しており、腹の子もその家臣の子だと告げ口したことで、常盤はついに自害に追い込まれて胎児と共に落命。その後冤罪だったことがわかったという・・・

◆へぇぇ~~悲劇なんだ。世田谷区民はみんな、この話を知っているの?

おたま:どうだかねぇ。知らない人も多いんじゃないかなぁ・・・冤罪と知って激怒した頼康が、讒言した十二人の側室たちを全員処刑。八幡神社を建てて常盤の腹の子を祀り、境内に弁財天の厳島神社も作って常盤の霊を慰めたという。

◆十二人も処刑?! 他罰的な奴っちゃなぁ。シェイクスピアのオセローは自責の念で自害したのに・・・

◇全く、讒言を信じた自分がまず反省しろって話だよね~

おたま:オセローでは、白人vs有色人種という問題が大きなポイントになっているけど、男の嫉妬にはコンプレックスという要素が重要かもね。

◇あっわかる! 今BSで再放送している「花子とアン」で、白蓮の旦那さんが、どんなに財力を誇示しても妻を振り向かせることが出来ず、妻が求める文学の素養や教養が自分に欠けている事がわかっているけど認めたくないという・・・

◆吉田鋼太郎、最高だよね! あのドラマの後、舞台のオセローもやってたけど、苦悩ぶりが半端なかった。

おたま:常盤伝説があまり世に知られず世田谷限定になっちゃっているのは、コンプレックス問題とかがなく単なる権力者と愛妾ってだけの話に終わってるんで、今いち話にコクがないっていうか、インパクトが不足してるかもね~

◇さてあと残るは一つ、世田谷八幡だけだね。

おたま:途中にちょうど、常盤伝説の由来を説明した「常盤塚」も通るよ。

◆今、思い出したんだけど、駒留神社って、ずっと前に一度来たことがあると思うんだ・・・だけど、こんな環七みたいな広い通り沿いじゃなくて、なんか雰囲気もかなり違ってて・・・ずっと前のことだから記憶がずれてんのかもしれないけど。

おたま:あっ、それはね、あんたが前に来たっていうのは、この駒留神社じゃなくって、きっと駒繋(こまつなぎ)神社のほうだよ! 住宅街の中にあるんだけど、こんもりした森みたいな、ちょっと鬱蒼とした所だったでしょ。

◆そう、それだよ!! ここと違うの? 

おたま:世田谷区民でも結構、混同してる人が多いよ。世田谷八八幡の中に「駒繋神社」って間違って書いてあるサイトとかもある。駒繋神社は八幡様じゃなくって、子(ね)の明神(大国主命)を祀った神社。駒繋の駒は、源頼朝の愛馬で、七沢の一つ「馬引沢」の時に話した、葦毛塚ゆかりの神社なんだ。

◇駒留と駒繋、確かに紛らわしいよね~~

おたま:駒繋神社は、ここから目黒川に続いている蛇崩川緑道沿いだから、こんど目黒川の花見ついでにでも、行ってみようかね。

◆◇楽しみだな~~

おたま:また世田谷通りに戻って、西に進んでいくと世田谷八幡だけど、せっかくだから大吉寺のところで左に折れてボロ市通りをちょっと歩いてみようかね。

◇大吉寺、寺内大吉さんのお寺で伊勢貞丈先生のお墓があるところでしょ! 『目籠』の現場検証に書いてあったよね。

おたま:すごい記憶力だねぇ、書いた当人のあたしも忘れてたよ(^^;

◆これがボロ市通りかぁ。

おたま:大山街道の一部でもあるんだね。毎年1月と12月に開かれる世田谷ボロ市は、北条氏政から楽市の権利を与えられて、430年の歴史を誇るイベント。いつもはこんな静かな通りだけど、ボロ市の時だけ異常な混雑で、世田谷線も増便になる。

◇あっ街灯に「世田谷代官」って書いてある。お代官さま~~~

おたま:ここが代官屋敷だよ。敷地内にある郷土資料館は、知る人ぞ知る小さな資料館だけど、北条幻庵覚書など保管されている史料や時々行われる特別展示の内容充実ぶりには定評があるんだ。去年の年末にやっていた「地図で見る世田谷」展の図録も、こんなに厚いのが千円で、展示物すべての詳細な解説と全部の展示地図が入っているCD込み!

◆ふ~ん、今度ゆっくり来てみよう。ところで、今でもこうして代官屋敷が残っているくらいだから、世田谷の代官って土地の人たちに愛されていたんだね。

◇時代劇なんかだと「越後屋~~おぬしも悪じゃのう、イッヒッヒ」「ムッフッフ、お代官様ほどではござりませぬ~」みたいな感じの悪代官イメージが強いけどね。

おたま:明治維新まで代々ここの代官を勤めた大場さんは相模の豪族大庭氏の流れで、もともとは吉良家の老臣だったけど、北条・吉良が滅亡したあといったん帰農して、そのあと改めて徳川配下の井伊家の代官にリクルートされたらしいよ。

◇勤めていた会社が大企業に吸収合併されて、いったん脱サラしたけど新しい会社にまた就職したって感じかな。

おたま:それだけ大場さんに領地運営の手腕があったんだろうね。徳川にしても井伊にしても、出身地から遠い世田谷のこのあたり、最初は全く勝手がわからなかっただろうから、土地の人々と絆もあり信頼できる管理人が必要だったんじゃない? 今の世田谷区長は保坂さんだけど、前の前くらいまでは代々大場一族の大場さんが区長だったし、区内の学校のPTA会長とかも大場さんが多いんだよ。

◆そういえば世田谷区民だったことのあるタモリさんが「大場区長もお友達」って言ってなかったっけ、まだ「いいとも」やってる頃。

◇ここからは世田谷線の線路に沿っていくんだね。あ、世田谷線宮の坂駅前に出た。

おたま:宮の坂駅には、玉電時代の車輛が置いてあって、子供たちの遊び場にもなっているよ。

◆あっ、新旧の世田谷線車輛が並んだ!

おたま:宮の坂駅からすぐの世田谷八幡、なかなか堂々としたお宮だよね。八幡太郎義家が奥州での戦勝御礼に創建したとも、世田谷吉良氏がここを拠点にした時に鶴岡八幡を勧請したともいわれ、はっきりした由来はよくわからないらしいけど。毎年秋の大祭に行なわれる奉納相撲の土俵もあるんだよ。

◇本日のゴール世田谷八幡に到着!

◆ついに世田谷八八幡、クリアしました!

おたま:この勢いで、今度は江戸の八八幡詣で十五里に挑戦するか?!
 

※参考資料は前篇と同じです。もしかしてブログ開始以来最長?? 長々お付合いいただき有難うございました!

世田谷八八幡めぐり(後篇)


◆この前の「世田谷七沢」の話から大分たっちゃったけど、今日はその続きで「世田谷八八幡」を巡ってお散歩します!

◇お正月、七福神巡りもいいけど、八幡様もいいよね。

おたま:八幡様といえば、富岡八幡は災難だったよねえ。長助親分はじめ、深川の皆さんもさぞ歎いていなさるだろうに。

◇でもツイッター見てたら「鎌倉の鶴岡八幡宮も、実朝が暗殺されるという大事件があったんだから大丈夫!」って誰かが投稿してた。

◆そうだよね、人生なにごとも前向きに行かなくちゃね~

◇ところで、八八幡って、江戸全体にもあるんでしょ。

おたま:そうそう、江戸の八八幡(ややはた)詣でっていうのが本家本元だよ。『六阿弥陀道しるべ』(御宿かわせみ14『神隠し』)で長助親分が説明してくれてる。
「まずは八八幡詣でと申しまして、深川の富岡八幡、市ヶ谷の八幡、高田村の穴八幡、ちょいと遠くになりますが青梅街道の妙法寺の先の大宮八幡、ここはなんでも八幡太郎義家のゆかりの社なんだそうで、それから、ずっと戻って来て千駄谷八幡、青山を抜けて行きまして渋谷八幡、渋谷川を行きまして大木戸の先の田町が稗田八幡、それから赤羽橋を渡って来て西の窪八幡、つまり八軒の・・・」

◇あれ? 平岩先生のご実家、代々木八幡は入ってないの?

全員:・・・・・・

おたま:ま、まぁ何だね、代々木八幡は鎌倉時代の創建でわりと新しいから、場所的にかぶる千駄谷の八幡(鳩森八幡)や渋谷の八幡(金王八幡)に比べると新参者ってことで、奥ゆかしくご遠慮申し上げたんじゃないかねぇ。なんせお宮さんって、いつ創建されたかわかんないくらい古い所もたくさんあるからねぇ。とにかく長助親分の説明の続きを読むよ!
「つまり八軒の八幡詣でをするってえと御利益があるんだそうですが、なんてったって十五里も歩き廻るんで、一日でお詣りしようとなると、なかなかえらいことになります」

◆げっ、十五里!60キロを一日で?!

おたま:世田谷八八幡はそれに比べりゃ世田谷区内だけだし、それも今回は2回に分けて行くんだからずっと楽だよね。今日は西側の三つを巡りま~す。出発は京王線の下高井戸駅から。

◇駅前の通りをいくと小学校が・・・あ、ここがこの前話題に出た松沢小学校か。松原の松と北沢の沢で松沢、住所は赤堤だったよね。

おたま:小学校の前は五差路になっていて、前方右手にあるのが鯛焼きで有名な居酒屋「たつみ屋」さん。今日は正月でまだ店やってないね~残念。松沢小のPTAの打上げも、この先の日大の学生さんたちのコンパも、みんなここ!

◆日大文理学部・日大桜丘高校・区立緑丘中学校と、学校の並ぶ間を抜けて右折すると、まず最初が「勝利八幡」だね。

◇八幡様は応神天皇とその母神功皇后をお祀りして、戦の勝利をお願いする神様だけど、名前も「勝利八幡」っていうのは珍しいね。



おたま:万寿三年(1026年)に京の石清水八幡宮から勧請、もともとこの地にあった山谷稲荷の御神体と合祀して上北沢村の鎮守となってきた神社なんだね。天明八年(1788年)に再建された旧社殿は世田谷区の有形文化財になってるんだって。「勝利八幡」の名前から、スポーツ関係者の参拝が多いことでも知られているよ。

◇そういや隣は日大陸上部の寮だね。入口に「闘志なき者は退去すべし」って看板がかかってる。

◆う~ん気合入ってるな~。

◇勝利八幡の前を西へ進んで荒玉水道道路と赤堤通りを越えると、次の八幡宮が。

◆これは何八幡?

おたま:ここはね~ただの八幡(笑)っていうか「八幡山の八幡」。最寄りの京王線の駅の名が「八幡山」で、鳥居の扁額も「八幡社」「八幡宮」だけなんだよね。


 
◇○○八幡と言わなくても、八幡様といえば地元の人たちにはわかったって事よね。「ザ・八幡」っていうことか~

おたま:創建は鎌倉時代とも室町時代とも言われていて詳細は不明なんだけど、この八幡が出来て以来現在までこの地が八幡山と呼ばれているんだね。その前の中世時代は「鍛冶山」と呼ばれていて、鍛冶屋が使う炭をまかなう森だったとも言われてる。徳川幕府が出来ると井伊領になって、井伊家の御用林になったそうだよ。

◇「木材」は、大河ドラマの直虎でも、井伊家の重要なアイテムだったよね!

◆八幡山っていうのは、昔はこの辺って山だったの? あんまり高低差とか坂道も無いようだけど・・・

おたま:「山」って、平地でも樹木がこんもり茂ったところを言うこともあったみたいだよ。このあたりは、ずっと杉と雑木の林だったらしいけど、まぁ人里離れた所だったんだろうねぇ。『新編武蔵風土記稿』にも「山林の内」に鎮座していたとあるそうだから。でもここの山車は世田谷区内で一番立派なんだって。

◇あ、八幡山遺跡の立派な石碑が・・・。

おたま:ここから縄文時代の土器などが発掘されているんだよ。また、江戸時代のものと思われる炭焼窯も発掘されている。

◆明大八幡山グランドと日大学生寮の前を過ぎると環八だね。あっ、千歳台交差点の歩道橋に「七沢」の話題で出た「廻沢」の名が!

おたま:この交差点を渡れば芦花公園だけど、ちょっと戻って烏山川の流れをたどりながら、もう一つ北側の交差点で渡ろう。数年前まではまだ水路があったんだけど、今は緑道になっているよ。

◆このうねうね加減がいい感じ!

◇交差点を渡れば粕谷八幡が!本日のゴールだぁ~~

おたま:粕谷八幡のある蘆花恒春園、通称芦花公園は、徳富蘆花の旧宅と墓所で有名だね。蘆花は明治40年に粕谷村に移転、夫人と共に晴耕雨読の生活を送った。当時の粕谷村は、家が二十数戸しかない寒村だったけれど、蘆花はこの地に深い愛着を持ち「世界を一周してみて、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。」と書いているんだって。

◆そんなふうに言われたら地元の人は嬉しかっただろうね!



おたま:著書『みみずのたはごと』には、村の人々の生活や村祭りの様子などが詳しく書かれている。「徳富蘆花粕谷村入り百年記念碑」の裏側に当時の粕谷村の地図が描かれているね。

◇わ~ほんとに数えるほどしか家がない!

◆鳥居のそばに「別れの杉」の説明があるね。今は枯れてしまっているけど、蘆花が、訪ねてくる人が帰っていくのをこの杉の木の下で見送ったんだって。

◇この、切株が金属の笠をかぶっているみたいなのがそう?

おたま:うん、二代目の若い杉が植えられたけれど、古い切株も大切に保存しているんだね。蘆花の客だけでなく、その後の戦争で出征する村の若者たちを、村人が見送ったのもこの杉の木のところだったそうで、地元の人々には深い思い入れのあるものなんだろうね。
さっ、この次は残りの五つ、一気に行くからね!

参考:区制50周年記念 世田谷、町村のおいたち(世田谷区区長室広報課)
   せたがや社寺と史跡(世田谷区教育委員会)
   世田谷区史跡散歩(学生社)

世田谷八八幡めぐり(前篇)

 
 今年は「戊戌」。
十干の五つめ「つちのえ=戊」と、十二支の最後から二番目「戌」の組み合わせで、似たような文字が重なってややこしい。他にも「甲申」とか「己巳」とか、ややこしい年がありますね。
「子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥」の十二支のほうは、今も一応、日本人の常識として定着しているように思われる。やっぱり動物のイメージというのが子供にも親しみやすいし「自分が何の歳か」というのは、親が教えなくても幼稚園での会話などで、自然と認識するようだ。

それに比べると十干「甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸」の方はかなりハードルが高い。「甲乙丙丁・・・」位までは言えても、さてその先って何だったっけ、となってしまう。我々世代だと、中学校の数学の参考書などで古いものはまだ、「甲の所持金は云々、乙の所持金はその何倍・・・」とか、「甲地点と乙地点は○○キロ離れて(さすがにもう○○里とか○○町ではなかった)」とかいうのが残っていたが、それもせいぜい甲乙丙くらいだったし。

ウォーキング愛好者の中では、道標・石塔オタクの人々がこれに詳しい。江戸以前のものは殆ど、元号と共に干支が記されているので、○年という数字はすり減って読めなくなっていても、干支がわかれば何年に建てられたものか類推できるのだ。まぁ単にブラブラ歩くだけの私レベルでは、せいぜい「庚申塔」で「庚申・・・カノエサル?」とか薄く反応するくらいだが。

で、我々一般人にはせいぜい、年賀状に書く時になって「来年は何だっけ?」とあわててネット検索したりするくらいな存在の十干。ようやくわかって書く、いや入力するだんになって、「変換されないよ~この字。どうやって出すんだ」ということになる。カシコイ人は「十干って、モッカドコンスイのそれぞれに、兄と弟だから、キノエ・キノト・ヒノエ・ヒノト・ツチノエ・ツチノト・・・あっ、ツチノエだ。ほら出たよ戊」などと、なんだかマジナイのような事を言って差をつける。確かにやってみると、オバカで名高いIMEでも、キノエ甲からミズノト癸まで、十文字全て一発で変換できる。「モッカドコンスイ=木火土金水=き・ひ・つち・か・みず」+「兄=え、弟=と」を覚えてさえいればOKということだ。

もっとも、そこからいちいち出発するのは面倒くさいのも確かで、もっと簡単に出す裏ワザは、歴史上の事件を活用することだ。今回も、大騒ぎしてようやく「ツチノエ=戊」を出したあとで、「あ~<戊辰戦争>と打てば一発だったんんだ」と後から悔しかった。
今後のために少し考えてみると、「乙巳の変(大化の改新)」まぁ乙は「オツ」で簡単に出ますがね。カノエは先ほども触れた庚申塔・庚申塚、そして「辛亥革命」に「壬申の乱」。壬申の乱といえば、今上天皇退位後は皇太子でなく皇太弟という存在が浮上することから、「すわ平成壬申の乱?」などという見出しを週刊誌で見た記憶があるが、壬申の乱は672年、この次の「壬申」は 2052年になるわけで、平成など遠い昔、元号がまだあるかどうかも怪しい。

ところで中国では、十干が現在でも有機化学の命名法に使われているそうだ。炭素の数が1,2,3,4・・・と増えるにつれて、日本では西洋に倣ってメタン、エタン、プロパン、ブタン・・・と名付けられている。中国語では西洋語を使わず炭素の数に十干をあてるため、炭素数2のエタノールは「乙醇」、炭素数4のブタジエンは「丁二烯」、炭素数8のオクタンは「辛烷」で、ハイオクガソリンは「高辛烷的汽油」になるんだそうだ。ややこしいけと何かかっこいい。さすが漢字の国。

いちおう十干の十個の漢字はわかったところで、それぞれの正確な読み、あらわす意味など、まだまだ奥が深く知らないことが多い。「戊」など日常では全く関りがないと思っていたところ、「茂」のクサカンムリを取れば「戊」で、意味も繁茂する、栄えるなど似たものらしいということを初めて知った。日本人の常識、まだまだ目標は遠いです。

謹賀新年 戊戌2018
あっという間に今年も御用納めに・・・

尽句@「御宿かわせみ談話室」も3回目を迎え、とりあえず最低の「三日坊主レベル」までは達することが出来て良かったです。皆様のご支援ご協力に感謝いたしますm(__)m
三日・三月・三年などと言いますが、まぁ先のことはあまり心配せずに、今後とも気楽にまいりましょう(^^;

さて「かわせみ」には「師走」のつくお話が二つありますね(御本家データベースに感謝!!)
一つは何といっても、かわせみ第一巻に『初春の客』と対のように並ぶ名作『師走の客』、そしてこれも初期の、心に残るお話『師走の月』です。

『冬の月』という話もあるので、ごっちゃになってしまうのですが、『師走の月』は、畳職人として良い腕を持ちながら、親心故に犯してしまった罪の自責で悲劇に終わる老職人、『冬の月』は経済的には不足のない老後を過ごしながら孤独に苛まれ、ほの見えた癒しもすぐに奪われて、さらに深い孤独に陥る老商人、と、どちらも悲しい老人の話でした。
シリーズを読み始めた頃は、源さんとかお吉さんのような傍観者的立場で読んでいたものですが、この頃はもう、当事者の老人の気持ちにすっかり入り込んでしまいます(-_-)

『師走の月』は確か、山本学さんが畳職人の鉄五郎を演じていたような記憶がありますが、テレビ朝日版だったでしょうか。NHK元祖版だと山本さんじゃちょっと若いですもんね。『冬の月』のほうは映像化されてましたっけ・・・
『師走の月』の登場人物で、もう一人印象に残るのは、女たらしの新三兄さん。
「たしかに、東吾さんと一脈、通じるものはありますな」
という源さんの台詞が笑えますが、一見いかにもモテそうには見えないし自堕落で傍迷惑なのに、なぜか女のほうが、迷惑をかけられた事を愛されていると勘違いしてしまうようなタイプ、平成の(そして平成の次の)世の中にも、結構いそうですよね。この人物を誰が演じていたかというのは覚えていないんですが、またリメイクするとしたら、「直虎」で龍雲丸をやっていた柳楽優弥くんあたりかな?
江戸編ではこうした、かわせみレギュラー以外の、その一話にしか出てこないキャラたちが、本当に生き生きと物語の中で動いてましたね。明治編ではそのあたりがちょっと(以下略)



『師走の客』はもう、今更コメントの必要もない初期を代表する名作の一つですが、やっぱりハッピーエンドっていうのがいいですね!
代々木野の稲垣先生は、1993版の文庫本ではまだお名前が出てこないで「老師」としかなってませんが、新装版では改訂されているんでしょうか?
写真は代々木八幡の隣の福泉寺にある、斉藤弥九郎の墓です。
かわせみ談話室 2017 12月
 

仕舞「竹生島」 泉房之介(泉雅一郎の長男、11歳)

仕舞「清経」 谷本康介(谷本健吾の次男、7歳)

仕舞「西王母」 馬野桃(馬野正基の長女、10歳)

舞囃子「橋弁慶」 観世銕之丞 谷本悠太朗(谷本健吾の長男、10歳)

狂言「棒縛」 野村万之丞 上杉啓太 河野佑紀

能「小鍛冶」 前シテ(童子) 馬野訓聡(馬野正基の長男、12歳)
      後シテ(稲荷明神) 長山凛三(長山桂三の長男、12歳)
      ワキ(三條宗近) 森常好 
      ワキツレ(勅使橘道成) 宝生尚哉(宝生欣哉の次男、14歳)
      アイ(宗近の下人) 野村拳之介(野村万蔵の次男、18歳)
青山能MIRAI

◆おたま姐さん、最近、世田谷一周ウォークで忙しいんですってね。なかなか顔見せてくれないから、こっちから遊びに来ましたよ~

◇だけど、おたま姐さんは深川育ち、亡くなった旦那さんは丹波の出のお人だったそうなのに、なんで世田谷なの?

おたま:そりゃぁねぇ、亭主と知り合うもっと前にさ、むにゅむにゅ・・・そんなこたどうだっていいんで、あんた達も参加しなさいよ世田谷一周ウォーク。これまでの記録はこちらですよ。
http://www.fujinsha.co.jp/2017/11/21/seta-walk1-report/
http://www.fujinsha.co.jp/2017/12/05/seta-walk2-report/

◆◇え~~お花見の頃とか、景色のいい所をぶらぶらお散歩するならいいけど、この寒空の下で十数キロも、ひたすら区境を行軍するなんて、遠慮しときますわ。

おたま:しょうがないねぇ。それはそうと、世田谷には「沢」のつく地名がいろいろあるよね。「世田谷七沢」って言われているんだよ。

◆そうそう、多いよね! 七つどころじゃないんじゃないの? まずは本多劇場はじめ、演劇やアートの街、下北沢の北沢でしょう。北沢タウンホールもあるよね。

おたま:さすが~~早速正解です! JRが走らない世田谷区内では、南部は東急、北部は小田急・京王線と、私鉄が重要な役割を果たしているんだけど、下北沢は小田急と京王井の頭線の乗り換え駅。小田急下北沢駅は最近、地下に入ってしまったけど、井の頭線の下北沢駅のほうはまだ昔ながらのホームが使われているよ。

◆オリンピック公園の駒沢も沢がつく!

おたま:うん。でもね、駒沢というのは明治になってからの新しい名前で、昔は馬引沢っていったんだ。今の上馬・下馬も、馬引沢だったの。馬「牽」沢と書いてある史料もあるよ。なぜ馬引沢という名前がついたかというと、源頼朝が奥州征伐に向った時、乗っていた馬がここで沢に落ちて死んでしまったので、「今後このような沢地を行く時は、馬に乗らず馬を引いて行け」という命令を出したからなんだって。この死んだ馬のために建てた「葦毛塚」の碑が、今も下馬五丁目の世田谷区と目黒区の境の所にあって、次回のウォークで通る予定だよ。

◇そうだったのか~。そういや、「沢」も多いけど、「野毛」だとか馬関係の名前も多いよね。

おたま:東隣の目黒区も、東大教養学部のある「駒場」があるしね。このあたりは源平時代から、軍馬の往来が激しかったし、明治時代にも陸軍の騎兵隊の演習地で、マンション街の一角に秋山好古の名前のある碑が建っている「騎兵山」の跡があるんだよ。

◆北沢に馬引沢、三つめは・・・あっ、うちのイトコが世田谷区に住んでて子供が松沢小学校というのに通ってるっていってた。創立130年にもなる古い学校だっていうから、「松沢」も七沢の一つでしょ?

おたま:惜しい! 松沢というのはね、確かに古い名前なんだけど、やっぱり明治以降なんだ。明治になって、それまで細かい村々に分かれていた郊外が再編成された時、北沢・赤堤・松原の三つの村が合併して、松原の「松」と北沢の「沢」とで「松沢」になったの。赤堤は位置が真ん中なので、名前が残らない代わりに、村役場や学校が置かれた。だから今でも松沢小学校は住所は赤堤なのに名前は松沢というわけ。

◇そっか~。じゃ、もしかして「代沢」も、「代田」と「北沢」なのかな?

おたま:ピンポーン! その通りです。

◆うーん、あとはどこかな~

おたま:南のほう、多摩川に近いほうを見てごらん。

◇もう地図を見ちゃおう。あっ、あったよ! 奥沢に深沢。

◆奥沢って九品仏のあるところだよね。

おたま:そう、九品仏で知られる浄真寺は、四代将軍家綱の時に開基されたのだけど、もともとは奥沢城という城があった所で、今も境内に土塁の跡が見られる。奥沢城は世田谷城の出城で、世田谷城と同様、後北条氏と姻戚関係を結んていた吉良氏の支配下だった。

◇奥沢は奥のほうにある沢だから? 深沢は、深い沢があったのかな~

おたま:う~んどうだろう。深沢は、都立園芸高校のあるところで、明治41年に出来たこの園芸高校は、都市近郊型の農業の開発に大きな力となったんだよ。

◆えーと、あとは・・・あっ、「野沢」もあるよ。

おたま:ネット検索とかすると、野沢も七沢の一つにする説もあるんだけど、厳密には「野沢」は沢があったからじゃなくて、別の理由からついたものらしいんだ。江戸に幕府が出来てからも、このあたりは田畑のない未開拓地だったんだけど、17世紀半ば頃から多摩川河口の六郷領沢田という所から開拓者が来て次第に開かれ、沢田新田といわれるようになった。また葛飾の野村治郎右衛門という人も開拓に尽力した。というわけで、沢田の「沢」と野村の「野」で、「野沢」になったという。

◇そうなのかぁ~、でも他に「沢」のつく所は見つからないけど・・・

おたま:たぶん、これ以上は、世田谷区民でもわからない人が多いと思うんだけど、今はもう残っていない地名で、「池沢」村と「廻沢(めぐりさわ)」村というのがあったんだよ。池沢という地名は今は残ってないけど、このあたりの目黒川沿いの低地にかなり大きな池があり池沢と呼ばれていたらしい。池の端と思われる「池尻」の名は今もあるし、井の頭線の下北沢の次の駅が「池ノ上」だからね。

◆廻沢って、読み方は難しいけど、いい名前じゃない? なくなってしまったのは惜しいよね。

おたま:そうだよね。芦花公園のあたりだけど、地元の人も無くすのは惜しいと思ったんだろうね、バス停や通りの名前、歩道橋の名前などには残っているみたいよ。

◇えーと、北沢・馬引沢・深沢・奥沢・池沢・廻沢・・・まだ六つだけど、もう一つあるの?

おたま:実はですね。北沢が、上北沢・下北沢と二つありまして、それで七つなのです。

◆◇え~!?

おたま:区制50周年を記念して世田谷区が刊行した「世田谷、町村のおいたち」という資料にこう書いてある。
「世田谷は丘と谷が交互する土地ですが、この谷のいくつかには、ところによって小さな沼沢地――あるいはそれに近い低湿地――がありました。田にできるところは田にし、それが不可能ならば葦の生い茂るにまかせていたものです。このような土地を”沢”と呼んだようで、これが地名に使われています」
「七沢というのは馬引沢、池沢、深沢、奥沢、廻沢、上北沢、そして下北沢です。」

◇地図を見ると、上北沢と下北沢って、けっこう離れてるし、それぞれ独立してるっぽいよね。なんで同じ北沢がついたんだろう。

おたま:それは北沢用水という、玉川上水から分水して作った農業用水の、上流部分が上北沢、下流部分が下北沢なんだ。今はもう水の流れはなくて緑道になっているけど、このあたりの農地にとってとても重要な用水だったわけ。地図を見ると、上北沢のあたりの、杉並区との区境がとても変わった形をしてるでしょう。区境の北側は、甲州街道の高井戸宿だったわけだけど、上高井戸と下高井戸の間をぐさっと上北沢が上に伸びて突き抜けている感じ。これも上北沢の村の人たちが用水を開発した周辺が、流れに沿った形で村の区画になったからなんだよね。

◇◆なるほど~、土地の名前を探っていくと、その土地の歴史がいろいろわかるんですね~

おたま:世田谷区に限らず、地域の図書館には必ず、その土地の歴史に関する資料が揃えられているので、寄ってみると、「長く住んでいたのに、全然知らなかった!」という発見がありますよ!
世田谷七沢八八幡
三曜会は、観世喜之氏のお弟子の佐久間二郎さんが、毎年12月の始めに開催しておられる会で、2013年に「船弁慶」を見てから二回目である。
今回は「船弁慶」の姉妹編のような「碇潜」に「橋弁慶」(両方とも子方ちゃんが出る!)それに仕舞は「鞍馬天狗」「屋島」、狂言は先週も拝見したばっかりの野村万作・萬斎父子共演と、いくら忙しくてもこれを見ないでどうするという内容で、早々とチケットを申し込み、ぜったいにこの日は他の予定とぶつからないように注意していた。12月はまだまだ先だと思っていたらアッという間だ。


 
仕舞「鞍馬天狗」 観世喜之


能「橋弁慶」

仕舞「屋島」 観世喜正

狂言「舟渡聟」

能「碇潜」
三曜会(第六回佐久間二郎能の会)
「矢大臣か」
矢大臣は矢大神とも書き、本来は神社の随身門の右側にある像の名称であった。弓矢を持って門を守る役目なので、矢大臣と呼ばれるのだが、片足を下へおろし、片足だけを胡坐をかくような恰好で上へあげている。
その形が居酒屋で明樽に腰をかけた客がやるのとよく似ていることから、そうした縄のれんの客を矢大臣といったり、ひいては居酒屋そのものを矢大臣と呼んだりする。
               『矢大臣殺し』(文庫『御宿かわせみ』17、『雨月』より)

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全く季節違いのこのお話に注目したのは、これが「かわせみ版:オリエント急行の殺人」として話題になったことがあり、近々、このオリエント急行殺人事件のリメイク版が、ケネス・ブラナーやジョニー・デップを始め超豪華スター競演で上映されるというので楽しみにしているためです。

アガサ・クリスティの原作が書かれたのは1934年。大昔もいい所で、千春ちゃん等かわせみキッズたちだって、ひょっとしたらまだ存命だったかもしれないくらいの頃ですが、クリスティ作品の中でも一二を争う人気作品で、何度も映像化されていますね。
有名なのはショーン・コネリーなどが出演したこれも超豪華配役の1974年MGM映画で、劇場では見られず後のテレビ放映で見ましたが、原作に忠実なオーソドックスな豪華大作だったと思います。

最近では、三谷幸喜脚本、野村萬斎のポアロで2015年新春の特番テレビドラマとして放映されたものが記憶に新しいですね。舞台を昭和初期の日本に置き換え、「オリエント急行」が「特急東洋」で、走る区間が下関~東京というのはやや、本場に比べるとちゃっちい感があったものの、登場人物はうまく翻案されていて豪華メンバーだったし、前篇後篇構成で、後篇はオリジナルで犯行の経緯を詳しく描く、というのが、刑事コロンボに触発されて倒叙ミステリーの新境地を開いた三谷脚本らしくて面白かったです。

かわせみ版お江戸のオリエント急行はもちろん、長篇の元祖に対して連作中の一短編ということで、ずっとこじんまりした話になっています。元祖は史実の事件がモデルであり、殺人犯人への恨みに加えて弱い立場の者が冤罪の犠牲者になっているというのが、単なる復讐譚でなく物語に深みを加えていますが、かわせみ版のほうは、どうも「悪い奴を皆でやっつけてメデタシメデタシ」というだけで終っちゃってますね。
それと、はっきり言って東吾さんが出しゃばり過ぎ+いい気になり過ぎ。
これ、東吾さんの登場がなくて、源さんが捜査の結果真相にたどりつくけれども、自分一人の胸におさめて・・・みたいな展開のほうが情感のある話になったと思うけれど。しかし、それでは、かわせみ物語にはならないなぁ(^^;

せっかく取り上げたのに悪口なんて、それならそもそも話題に出すなよとつっこまれそうですが、そもそも出しゃばりといい気は東吾さんのトレードマーク(?)で美点と裏表のキャラになってるわけだし、かわせみ常連面々も元気いっぱいで、明治編と比べるとこの頃は賑やかでよかったな~と思います。確か大工の源七さんは、後の話で登場しますよね~~何のお話だったかしら?
佐賀稲荷というのも現在も佐賀二丁目にあるようで、あちらの方に行くついでがあったらチェックしてみたいです。

<追記>

ということで、深川佐賀町の佐賀稲荷、行って参りました。



佐賀稲荷は寛永7年(1630)、埋立地として新しく開かれた町の人々の除厄招福を願って創建されたもので、祭神は稲の霊宇迦之魂命。明治以降は米問屋が集い商売繁盛の稲荷として栄えた。当時の米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している。また倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持で奉納された力石がある。


かわせみ談話室2017 11月
十回記念ということで、常にも増して超豪華な顔ぶれ・・・12歳ながらもう子方というより人気実力兼ね備えた若き能楽師のオーラを振りまきまくる凛三くんとパパ桂三氏親子の義経・弁慶に加えて、馬野パパや武田家ご兄弟・坂井家ご兄弟始め、主役級のシテ方皆様が郎党でドヤドヤとご出演、その上、銕之丞師は師匠だから当然としても、野村四郎・浅見真州ほかの大御所が仕舞や地謡・後見で、狂言は万作師・・・と思ったらなんとアイの強力で萬斎さんも登場。
長山家は今年、ご自宅のお稽古場に立派な「長山能舞台」を落成されたというし、乗りに乗っているという感じ。
5月の「春栄」、9月の「海士」に行けなかったので、今年最初で最後の桂諷會になってしまったが来年以降の凛三くん達の活躍ますます楽しみだ。

桂諷會は番組がとても充実していて、仕舞や舞囃子の曲目についても詳しく解説されているし、どの部分が演じられるかという記載もあるので、初心者には大変ありがたい。

舞囃子「鞍馬天狗」 長山凛三

仕舞「実盛」 野村四郎

「その執心の修羅の道、めぐりめぐりてまたここに、木曾と組まんとたくみしを、手塚めに隔てられし無念は今にあり」
「老武者の悲しさは、戦にはし疲れたり、風にちぢめる枯木の力も折れて・・・篠原の土となつて影も形も亡き跡の、影も形も南無阿弥陀仏、弔ひて賜び給へ、跡とぶらひて賜び給へ」
 
仕舞「仏原」 長山禮三郎

「ひとりなを仏の御名を尋みむ、をのをの帰る法の場人(にはびと)」
「法の教へもいく程の世ぞや、前仏は過ぎぬ、後仏はいまだ也」
「嵐吹く雲水の、あらし吹く雲水の、天に浮かべる浪の一滴の露の始めをば、なにとか返す舞の袖、一歩挙げざる前をこそ、仏の舞とは言ふべけれど、謡ひ捨てて失せにけりや、謡ひ捨てて失せにけり」
 
仕舞「船弁慶」 鵜澤久

「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛幽霊なり」
「あら珍しや、いかに義経、思ひも寄らぬ浦波の、声をしるべに出舟の」
「夕波に浮べる長刀取り直し、巴波の紋あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹きかけ、眼もくらみ心も乱れて、前後を忘ずるばかりなり」
「その時義経すこしも騒がず、打物抜き持ち、現の人に向ふがごとく、言葉を交し戦ひ給へば、弁慶押し隔て、打物業にてかなふまじと、数珠さらさらと押し揉んで」
「なほ怨霊は慕ひ来るを・・・また引く汐に揺られ流れて、跡白波とぞなりにける」
 
狂言「清水座頭」 シテ(座頭)野村万作 アド(瞽女)中村修一

舞囃子「頼政」 観世銕之丞

「そもそも治承の夏の頃、よしなき御謀叛を勧め申し、名も高倉の宮の内、雲居のよそに有明の、月の都を忍び出でて、憂き時しもに近江路や、三井寺さして落ち給ふ」
「さるほどに源平の兵、宇治川の南北の岸にうち臨み、鬨の声矢叫びの音、波に類へておびただし」
「さるほどに入り乱れ・・・これまでと思ひて平等院の庭の面、これなる芝の上に扇をうち敷き」
「さすが名を得しその身とて、埋れ木の花咲くこともなかりしに身のなる果はあはれなりけり」
 
能「安宅」
第十回記念桂諷會 「安宅」