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「矢大臣か」
矢大臣は矢大神とも書き、本来は神社の随身門の右側にある像の名称であった。弓矢を持って門を守る役目なので、矢大臣と呼ばれるのだが、片足を下へおろし、片足だけを胡坐をかくような恰好で上へあげている。
その形が居酒屋で明樽に腰をかけた客がやるのとよく似ていることから、そうした縄のれんの客を矢大臣といったり、ひいては居酒屋そのものを矢大臣と呼んだりする。
               『矢大臣殺し』(文庫『御宿かわせみ』17、『雨月』より)

     *********************************

全く季節違いのこのお話に注目したのは、これが「かわせみ版:オリエント急行の殺人」として話題になったことがあり、近々、このオリエント急行殺人事件のリメイク版が、ケネス・ブラナーやジョニー・デップを始め超豪華スター競演で上映されるというので楽しみにしているためです。

アガサ・クリスティの原作が書かれたのは1934年。大昔もいい所で、千春ちゃん等かわせみキッズたちだって、ひょっとしたらまだ存命だったかもしれないくらいの頃ですが、クリスティ作品の中でも一二を争う人気作品で、何度も映像化されていますね。
有名なのはショーン・コネリーなどが出演したこれも超豪華配役の1974年MGM映画で、劇場では見られず後のテレビ放映で見ましたが、原作に忠実なオーソドックスな豪華大作だったと思います。

最近では、三谷幸喜脚本、野村萬斎のポアロで2015年新春の特番テレビドラマとして放映されたものが記憶に新しいですね。舞台を昭和初期の日本に置き換え、「オリエント急行」が「特急東洋」で、走る区間が下関~東京というのはやや、本場に比べるとちゃっちい感があったものの、登場人物はうまく翻案されていて豪華メンバーだったし、前篇後篇構成で、後篇はオリジナルで犯行の経緯を詳しく描く、というのが、刑事コロンボに触発されて倒叙ミステリーの新境地を開いた三谷脚本らしくて面白かったです。

かわせみ版お江戸のオリエント急行はもちろん、長篇の元祖に対して連作中の一短編ということで、ずっとこじんまりした話になっています。元祖は史実の事件がモデルであり、殺人犯人への恨みに加えて弱い立場の者が冤罪の犠牲者になっているというのが、単なる復讐譚でなく物語に深みを加えていますが、かわせみ版のほうは、どうも「悪い奴を皆でやっつけてメデタシメデタシ」というだけで終っちゃってますね。
それと、はっきり言って東吾さんが出しゃばり過ぎ+いい気になり過ぎ。
これ、東吾さんの登場がなくて、源さんが捜査の結果真相にたどりつくけれども、自分一人の胸におさめて・・・みたいな展開のほうが情感のある話になったと思うけれど。しかし、それでは、かわせみ物語にはならないなぁ(^^;

せっかく取り上げたのに悪口なんて、それならそもそも話題に出すなよとつっこまれそうですが、そもそも出しゃばりといい気は東吾さんのトレードマーク(?)で美点と裏表のキャラになってるわけだし、かわせみ常連面々も元気いっぱいで、明治編と比べるとこの頃は賑やかでよかったな~と思います。確か大工の源七さんは、後の話で登場しますよね~~何のお話だったかしら?
佐賀稲荷というのも現在も佐賀二丁目にあるようで、あちらの方に行くついでがあったらチェックしてみたいです。

<追記>

ということで、深川佐賀町の佐賀稲荷、行って参りました。



佐賀稲荷は寛永7年(1630)、埋立地として新しく開かれた町の人々の除厄招福を願って創建されたもので、祭神は稲の霊宇迦之魂命。明治以降は米問屋が集い商売繁盛の稲荷として栄えた。当時の米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している。また倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持で奉納された力石がある。


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かわせみ談話室2017 11月
皆様ご存知のとおり、御宿かわせみファンの間で「御本家」として親しまれてきた「御宿かわせみの世界」掲示板が、今月20日で終了の運びとなりました。それに伴い、毎月末恒例で掲示板を賑わせていた「尽句」を、管理人さんのご諒解を得て、拙ブログに移行することにいたしました。

もっともブログでは、皆が本文に書きこむわけにいきませんので、必然的にコメント欄のみの使用となり、使い勝手が悪いと思いますが、やりかたについては、皆様のご意見やアイデアをどんどん取り入れ、適宜工夫していくつもりです。

移行にあたっては、これまでの尽句よりも、かなりユルめの(管理人のキャラの違い(^^;)設定にします。まず月末の一日だけでなく、28日頃に書き込み始められるようにして(なぜ28日?という特別の理由はありませんが、年末の御用納めも28日だし)、忘れていて翌月になってしまっても全然気にしない(コメント欄に書き込みがあると、自動的に拙管理人にメールが届きますので、ものすごく前の記事にコメントがあってもOKなのです)。

さらに、自分の尽句五七五を思いつかなくても、単なる近況報告とか、他の方の五七五の感想とか、最近読み直したかわせみ物語とか、テレビのかわせみシリーズに出ていたあの俳優さんが、今これに出ているよ~とか、何でもあり!の「談話室」ということにいたします。

(これまでの御本家尽句にしても、とくに管理人さんが厳しい縛りを設けていたわけではなかったと思うのですが、何といってもデザインといい内容といい、すごく美しくて隙のない感じのサイトなので、勢い掲示板に書き込むにも、皆様それなりの敷居の高さを感じられていたのでは、と拝察していたのですが、掲示板終了というお知らせのあと、ぽつぽつと「一度も書き込みしなかったけどよく見ていました」というご挨拶が続き、やっぱりな~と思いました)

その点こちらは、全くの気兼ねなし、ユルユルのザバザバというわけで(笑)
 
御本家の掲示板は終了しましたが、もちろん、サイトそのものはまだまだ続きます!!
新作などについての情報も、随時更新してくださるとのこと(^O^)
当然ここの画面左のリンクにも入れてあります。
何といっても、データベースとしての価値は測り知れないサイトですので、今後も多くの方々が活用されることは間違いなく、たぶんプロの編集者の方々もコッソリ使ってるなと私は睨んでいるのだ(ワハハ)
そしてもう一つ、データベースとして是非お勧めなのが、かわせみお仲間サイトの一つ「はいくりんぐ」の中の「月別編」作品リストです。この季節にはどんなお話があったっけな~と思うときに大変便利、さらに「はいくりんぐ」句会で取り上げたものは句会ページにリンクされていますので、季節の物語にちなんだ皆様の素晴らしい御句も見られます。はいくりんぐのWEB句会は現在休会中ですが、これも、かわせみ物語を読み返すと同時に過去ログを見てしまうというファンが大勢。

この「はいくりんぐ」の月別リストで10月のお話を見ると、中に『かくれんぼ』がありますね。文庫版は1997年、単行本は94年、オール讀物に掲載されたのが93年、もう四半世紀も前の作品になるんですね(遠い目)。
このお話の頃は、千春も生れておらず、麻太郎はまだ大村家の子なので、かわせみキッズは源太郎と花世だけ。『かくれんぼ』ではまだ幼児の二人、数年後の『源太郎の初恋』に繋がっていくわけですが、この二人が後々明治編では夫婦になることを知っている読者たちにとっては、もうどこを読んでもニマニマしてしまうわけで。まぁ二人の関係性っていうのは、初手から全然変わってないんだなぁという感慨もあります。
幼いながら事件解決に大きな役割を果たした源太郎を褒めちぎる東吾さんに、「それくらい出来なくてどうします。我が家は代々同心の家督を…」とかツッコミながら内心(^O^)(^O^)な源さんの表情も、読みどころですよね♪

さて、このお話の舞台となった品川の風景を、広重の東海道五十三次でご覧ください。



左はよく見かける保永堂版「品川日之出」ですが、右は隷書版「品川鮫洲の茶屋」です。保永堂版が東海道を行く参勤交代の大名行列を描いているのに対し、隷書版の茶屋で休む女たちは、旅人ではなく品川の海を見物する江戸の母娘らしい。左の男性は大山詣帰りで、担いでいる赤い房のようなものが付いた棒は「梅酢槍」という大山土産であると、人文社の画集解説に書いてあるのですが、梅酢槍って何なのか、検索してもわかりません(汗)。
 
かわせみ談話室2017 10月

会社のお盆休みが前倒しになったので、この一週間はのんびりと早朝ウォーキングの後に昼寝で過ごし、夜は少しでもブログ更新!という心つもりでいたが、昼寝までは実行できたもののブログはさっぱり・・・
しかしこの夏の最高気温を記録したと思ったら急に涼しくなって、怠け心を暑さのせいにすることも出来なくなり、これを機会にずっと自分の中で懸案事項だった「明治編かわせみの急展開」について考えてみることにした。

懸案事項とは、ご本家かわせみ掲示板でも4月に話題になっていた、あの思いがけないカップル(?)の成り行きである。ネタバレは基本的に文庫が出てから・・・というのが、かわせみ掲示板の不文律だったように思うけれど、このブログなら訪れる人も殆どいないし大丈夫だろう(^^;

明治編衝撃の展開といえば、もちろん第一作の、東吾さんの行方不明・宗太郎先生と花世を除く麻生家の全滅・源さんの殉職という悲劇の大連打が起こした読者の阿鼻叫喚。これは私も大ショックではあったが、作者が考え抜いた上であえて行った大鉈振いという事は理解できた。

その後、麻生家と源さんの仇は、麻太郎・源太郎そして何とお千絵さんまで奮闘して見事に討つことが出来たし、後は東吾さん問題の決着が何とかハッピーな形でつけばよいがと、少し読者も安心したところで、『青い服の女』巻末作品『安見家の三姉妹』において、正吉とお晴という、たぶん99パーセントの読者がノーチェックだったと思われる二人のこの成り行き。
とくに正吉は江戸編の初期に幼児として登場して以来、読者にとっては愛されキャラの一人であり続けた人物で、このショックのため、この話の本来のテーマである「安見家の三姉妹」がどうなったのかは、すっかり頭から飛んでしまった・・・というのは私だけではないだろう。

驚かされるのは、事の展開だけでなく、お晴の口にする台詞である。

「御存知だと思いますけれど、あそこは大昔から金沢八景の名所の一つで一年中、見物客が押しかけて旅籠の数も多いし、料理茶屋も有名な店が並んでいます。ですから働き手はいくらあってもいいし、お給金も東京よりずっと沢山頂けるんです」

「とんでもない。あちらは御立派なお袋様を背負っているんですから、とても重くて六浦まで来られる筈はありませんよ」

お晴ちゃんってこんな事を言う子だったかしら・・・

いかにも、かわせみが安月給と言わんばかりの言い方だが、お晴の言う観光名所の旅籠の女中の高収入というのは、かわせみのような純粋な宿屋女中とは違う、まぁ「その手の仕事」であることは容易に想像がつくし、自分でもそれをよくわかった上で言っているようだ。
「お袋様」というのは方月館にいるおとせさんの事である訳だが、お晴とおとせが顔を合わせるシーンというのは記憶にない。しかし、お晴のこっちの台詞のほうは、なんとなく理解できる気もする。

とりあえず、登場人物の立場・作者の立場という二つの視点から、考察いや妄想を進めてみた。

◆お晴になったつもりで考えてみる

お晴の初登場は『稲荷橋の飴屋』で、金沢八景の料理茶屋の女将をしている、お吉の姪おすぎの世話で新参女中としてかわせみにお目見得。六浦の漁師の娘だが、幼い時に両親を亡くし天涯孤独の身の上、「雨がどんなに続いても晴れる日は必ず来る」とつけてもらった「晴」という名前にふさわしい、努力家で辛抱強い性格、観察眼もなかなか鋭い賢い娘として描かれていた。
その後、それほど目立った活躍はなかったようだが、女中奉公に慣れるまで何かと大騒ぎだったお石に比べれば、かなりスムーズにかわせみに溶け込んでいったようで、明治編ではすっかりベテランになり、お吉の跡継ぎ的な立場になっていることに、読者は何ら違和感を感じなかったはずである。

しかし、最新刊の展開を知ってから改めて、明治編最初の『築地居留地の事件』を読み直すと、麻太郎が英国から帰ってかわせみに顔を出すシーンで、千春にるい、嘉助にお吉の出迎えがそれぞれのキャラ全開で描かれるのと同時に、正吉が千春に「嘉助さんの跡継ぎ」と紹介されているのに対し、お晴の名はこの重要シーンに記されていないことに気がつく。「続いて女中たちや板前までが出迎えに出て来た」とある中にたぶん居たのであろうというだけだ。
そして驚いたことには、『新・御宿かわせみ』まるまる一冊の中に、ほとんどお晴の名が見られないのである。私の読み逃しかもしれないが、最終話の麻太郎・源太郎の仇討譚『天が泣く』でも正吉はかなりの出番があるのに、お晴は全然出て来ない。この「注目されていないお晴」の立場というのは、作者のうっかりか、実は意図的な伏線だったのか?

お晴が明治編で明確に登場するのは、二冊目の『華族夫人の忘れもの』の冒頭で、いきなり「女中頭代理のお晴」が茶を運んでくるシーンだが、読者としてはこれで、前の明治編初巻でも「女中頭代理に出世したお晴」が何度か登場していたような錯覚を起こしてしまうのだ。この『華族夫人・・・』では乱闘シーンなどにも参加しているお晴であるが、その後『花世の立春』『蘭陵王の恋』と進む中も存在感は希薄であり、たまに女中としての仕事をしている様子がちょっと出てくるのみである。
まぁ、明治編になってから、かわせみ自体の登場が少なくなっており、麻太郎のいる築地居留地の診療所や源太郎・花世の新居など、江戸編には無かった新しい舞台が増えているので仕方のない面もあるのだが。

こうした中で、お晴自身はいったいどんな気持ちで日々暮らしていたのだろうか・・・と考えてみると、案外、今回の「衝撃の展開」はそれほど衝撃的でもないのかもしれない、と思えてくるのだ。

第一に、「かわせみの女中頭代理」という立場は、本当にお晴が望んでいるものだったのか。
正吉のほうは、かわせみに就職した時点で、嘉助の跡継ぎになることは想定内であっただろう。千春が一人娘であることを考えれば、さらに嘉助以上の、かわせみの実質的CEOとしての将来性も含んでいたと思われるし、それにふさわしい文武の鍛錬も東吾たちから受けていたようだ。実父は医者、継父も、早くに縁が切れたものの大商人であり、背景に不足はない。人柄からいっても、かわせみとの付合いの長さからいっても、千春が他家に嫁いでしまっても乗っ取りなどは露ほども考えず誠実に、かつ経営者としては果断に、かわせみを預かり管理していくことが期待できる、これ以上の人材はないと言えよう。
こうして成長していく正吉に対して、お晴が淡い恋心を抱いたとしても全く不思議はない。しかし、お晴にとって恋とは、るいの東吾に対するような、命かけてもという類のものではなかったと思う。

先に述べたように、お晴は少女時代から観察力に優れており、冷静・客観的に物事を見るタイプだった(たぶんこの観察力で、正吉のマザコン傾向も察していたとすると、「お袋様」云々の台詞も納得いく)。悪く言えば計算高い・打算で動きやすいともいえる。
「幼い時から、天涯孤独で人を頼らず生きてきて、その場限りの方便で嘘をつくのが生きる智恵のようになっていた」と評されているのもしかりである。
ちなみにこの言葉は麻太郎のもので、仮にもかわせみの一員であるお晴について、こんなに突き放した見方を彼がしていたんだというのも、軽いショックではあるが。

ところで、これまでのかわせみの女中たちは皆、かわせみに嫁入り仕度のサポートを受けて、適当な嫁入り先に片付いていた。お晴としてもそれを望んでいたのではなかろうか。
正吉に淡い恋心を抱いたとしても、かわせみの人々や正吉のお袋様が想定している正吉の嫁の範疇には、自分は入っていないことは敏感に察していただろうし、実際に正吉の妻となって一緒にかわせみを切り回していくというのも、よく考えてみれば荷が重いと思っただろう。

自分の前任者のお石の幸福な(&ちょっと笑える)結婚のいきさつも、お晴は詳しく聞いていたに違いないし、そんなに御立派な男でなくてもいいから、どこかの職人か商人と縁を結んでもらって、子供も作り、安定した家庭を築きたい、と考えていたのではないか。良家に嫁ぐよりは、自分と同様に親を早く亡くして苦労した働き者の男と水入らずで暮らしたかったかもしれない。しかし、お晴は自分から周囲に心を開こうとするタイプではないし、そういう事をハッキリ口に出来る機会もなかったのだろう。
 

嫁入り先も世話してもらえず、ずるずると古参になってしまい、女中頭代理とか言われているけれど、このまま自分はずっとここで働き続けるしかないのだろうか、お吉さんがもっと年取ってボケてきたら、責任持って世話しなければならないのは自分だが、自分が老いた時は・・・?そんな考えもお晴の頭をよぎっていたことだろう。
「女中頭代理」というのも、悪く解釈すれば、維新のごたごたと次第に老いゆくお吉の都合で、なんとなく諸々がお晴の肩にかかってきているだけともとれる。

嘉助のほうは割に計画的に正吉へ引継ぎ・指導していると思われるが、お吉のキャラだと、決して悪気は無いのだが、その時の気分で「もう女中頭代理なんだから、あれこれ言わなくても自分で判断してほしい」と言ったり、「まだまだ私が指示しないとやっていけない」としゃしゃり出てきたり、当節ブラック企業の「肩書だけ店長」ほどではないにしても、お晴の労働量と裁量権とが結構アンバランスだった可能性も少なくはない。
本来ならおるいさんがその辺きっちり修正するはずだが、おるいさんも東吾行方不明のショックや、千春の結婚騒ぎなどでスルーしてしまっていたかもしれない。

◆実は張られていた作者の伏線?

この展開に限らず、明治編の物語全体で考えてみても、江戸編の明るさとは対照的な、独特の陰というか淀む澱のようなものがあることに気づく。
源太郎母子の不協和音。あの強気な花世が「固くなりかけたぼた餅を食べながら、ほろほろと」涙を流さねばならなかった、源太郎との新生活の出発の日のほろ苦さ。幸せな結婚をしたはずなのに何故か影の薄い千春夫婦(同じ東京に住んでいるはずなのにほとんど里帰りもしていない?)

「お袋様」の件は江戸編からの伏線といえる。美しくいつまでも若く、その上家事万端そつなくこなしてしまう姑という存在が、ロクな事にならないというのは、『時雨降る夜』を始め初期作品からたびたび描かれてきたことだった。

そして今思えば、『文三の恋人』で、小源やお石に続いて幸せなかわせみ準レギュラーになるかと思われた元水売りの文三が、意外にも庭師の修業を捨てて年上の恋人と駆け落ちしてしまったのも意味深だ。

「文三さんはなんといっているのですか。あちらの気持は・・・」(るい)
「知りません。聞いたこともありません」(お幸)

「あんな女じゃ文三さんと不釣合ですよ」「女のほうが文三さんにのぼせ上ったんですよ。文三さんは優しいから・・・」(お吉)

「文三のほうは女房にしようと思ってお幸って女とつき合っていたわけじゃねえのかも・・・」(東吾)

文三を正吉に置き換えても、そのまま成り立つような展開になっている。

しかし救いは、『文三の恋人』が決してバッドエンドではなかったことだ。「生きてさえいれば、人はそれなりの幸せを摑むことが出来る」
正吉とお晴は、文三たちのように二人で去るのではなく、別々の道をたどる事になったが、いつかそれぞれに、それなりの幸せを摑んだ姿が、再び登場することを心から願う。

明治編の回を重ねるごとに、Amazon のカスタマーレビューも辛口評が多くなっている。
『お伊勢まいり』では星五つを探すと皆「古本だが状態が良かった」という意味の星五つばかりなのが悲しい。最新刊の『青い服の女』は読むのも辛い評ばかりだが、それでもわざわざ時間を割いてカスタマーレビューを書く人が多いのは、長年のかわせみファン健在ということであろう。

 

かわせみ明治編の新展開