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◆さて今日は、この前のお散歩でちょっと話の出た蛇崩川緑道を歩きます。蛇崩川は昔、目黒川と合流していた川で、私たちは今、目黒川にいるんだけど、この花見日和とあって人・人・人でもう大変!!

◇おたま姐さんどこにいるのかなぁ~?? あっ、ようやく見つけた! 

おたま:まぁ予想はしていたけど、大変な混雑ぶりだねぇ~。

◆目黒川は「かわせみ」シリーズでもよく出てきたところだよね。江戸時代は閑静な郊外だったみたいだけど。

◇あたしたち中目黒駅から来たんだけど、なんと駅での待ち合わせ禁止!だったのよぉ~~駅員さんとかガードマンが、立ち止まらないで!あっち行けあっち~~って、一刻も早く駅周辺から人の群れを追い払おうとやっきになってた。

◆外国人もいっぱい、人種も国籍もいろんな人たちが集まってるね~

おたま:ここが
目黒川と蛇崩川の合流地点、日の出橋と宝来橋の間。蛇崩川のほうは今はもう、全部暗渠になってしまっているけどね。


紅葉橋っていうのもあるけど、これは蛇崩川のほうの橋かな。

おたま:そう、紅葉橋は蛇崩川が目黒川に合流する前の最後の橋だね。


◇そういえば、目黒川って、二級河川なの? もっと小さな川で一級河川のが結構あるみたいだけど。

おたま:一級河川と二級河川の違いっていうのは、長さや広さじゃなくて、なんか「重要度」みたいなもんらしいよ。国が管理してるのが一級河川で、都道府県が管理してるのが二級河川とか聞いたことがある。

◆重要な川?って何だろう。今は江戸時代と違って、川も交通網じゃないしね~。

◇今、スマホで調べた。国民の命や財産、経済的な影響が大きい川の中で国土交通大臣が指定したものが一級、それ以外の川のなかから都道府県知事が指定したものが二級なんだって。この一級二級は、一つずつの川じゃなくて支流も全て含んだ「水系」なので、一つの水系内で一級と二級が混ざることはないらしい。

おたま:多摩川や利根川みたいな大きな川に続いていれば、支流の支流の小さな川でも一級ってことなんだね。

◇目黒川が海に流れこむ前に、野川みたいに多摩川と合流してれば、目黒川も一級だったわけだ。

◆二級っていうより、インディー系河川って呼んでほしいよね。

おたま:目黒川沿いにも、いろいろな見どころがあるんだけど、花時が終わってからゆっくり来たほうがいいね。花見は蛇崩川緑道のほうですることにして、まずは緑道の入口にある「みどりの散歩道」説明板でざっと「蛇崩川の基礎知識」を。



◆あ、また中目黒駅前に戻ってきたね。山手通りを渡って、東横線の線路に沿って路地が伸びている。

おたま:この
左手が目黒銀座商店街で、ここはその裏になっているんだね。


◇ビルの一階が保育園になっているね。保育園の前に児童公園。あれ、奥になんか神社みたいなのがあるのかな?

おたま: 商店街側が入口になっている目黒銀座観音だよ。



おたま:ここは馬頭観音を祀った小さな神社だけど、このあたり、明治大正時代は小さな乳牛牧場とか、馬で荷物を運ぶ運送業とかが多くて「目黒恵比寿畜舎運送組合」ってのが作られて、そこが武州上岡(今の東村山市)から勧請したんだって。

◆そういえば、かわせみ明治編にも、東京のあちこちに牧場が出来て牛乳を売っているっていうのがあったよね。

◇そうそう、青山の牧場だっけ? それが敵討ちの手がかりになるんだった。

おたま:馬の運送業っていうのも、もともと目黒と世田谷の境のあたりは駒留・駒繋神社なんかがあるように、馬の通り道があって発展してきたからだろうね。

◆あれ、なんか甘~い匂いがしてくる。パン屋さんとかあるのかな?

◇「キャンディーランド」? 飴屋さんだったのか! そういえば『稲荷橋の飴屋』っていう話がかわせみにもあったね。あのタンクで飴の材料を煮てるのかな~



◆こんどは石鹸の匂いだ。ああ、クリーニング屋さんか。なになに「ドライクリーニングではないクリーニング」昔ながらの洗濯屋さん?

◇目黒って目黒不動くらいしか知らなかったけど、なんか面白い~
おたま:ここから、東横線線路の向こう側に続くんだよ。ガードをくぐって行こう。

◆わ~緑道らしい道になってきた! 桜並木も満開だね。



◇こっちは目黒川と違って人もあんまりいない。これも桜? 濃いピンクのとか、色とりどりで綺麗だな~

◆蛇崩川緑道はずっと石畳の道が続いているんだね。烏山川緑道や北沢川緑道は、流れを少し残していたけど。



また蛇崩川の説明板があった。佐藤佐太郎っていう歌人がこの辺に住んでいて、蛇崩川のことをよく歌に詠んでいたんだって。


◆斎藤茂吉のお弟子さんなんだね。

おたま:世田谷区と目黒区の境に着いたよ。この左にちょっと行くと、例の頼朝の馬を祀った葦毛塚があるから、見てみよう。



◆ここから世田谷区の緑道? また桜並木がいいなぁ。世田谷区のほうがちょっと幹が太いかな? 古い樹が多いのかな。



おたま:児童公園の向こうに赤い橋が見えてきたでしょ。あれが駒繋神社。

◇駒留神社と間違えやすい、こっちが駒繋神社だ~

◆ちょっと小高くなっていて、緑も多いね。



おたま:ここの神様は、八幡様じゃなくって、子(ね)の神=大国主命(オオナムチ)なんだよね。「陸稲もち米」の碑もあるのは、米作りが国作りの基本だからかな。



◆となりの中学校は駒繋中学じゃなくて駒留中学? また間違えそうだよ。

◇裏が「子の神公園」なんだね。

おたま:少し先に「子の神橋」もあるよ。さて、蛇崩川緑道は、この先もずっと環七のほうへ続くけど、花見どころは大体歩いたから、三軒茶屋まで行ったら駅前に出てお茶して帰ろうか。

◇◆さんせ~~い!!

おたま:三軒茶屋に近くなると、緑が少なくなって建物と建物の間の路地のような道が続いているよ。

◆おたま姐さん、三軒茶屋のお薦めスイーツ処ってどこ?

おたま:知らな~い。適当にどこか見つかったところに入ろうよ。

◇ええっ、てっきりお薦めのところがいろいろあると思ったのに~



おたま:そんな、オシャレなカフェみたいなのは、あんた達のほうがよっぽど鼻がきくでしょ。それより、三軒茶屋の駅前に出たら、見忘れちゃいけないのが地下鉄駅入口の脇にある大山道標! 世田谷区内の大山道の中では一番立派なやつだからね。

◇あ、これかぁ。正面に大きく「大山道」って書いてあるからわかりやすいね。「此の方、二子道」今は田園都市線で、急行なら三軒茶屋から二子玉川は次の停車駅だよね。

おたま:こっち側は「右 富士・世田谷・登戸道」、文化九年の道標だよ。建てられたのはもっと前みたいだけど、文化九年に再建したんだね。

◆さぁ、道標も拝んだことだし、どこかいいスイーツ処はないかなぁ…

◇あっ、あれはどう? 「パンケーキママカフェ」だって。季節限定「桜と塩生クリームのパンケーキ」私これにする!

◆いいね!私は「自家製ハニーレモンアイス添えのレモンパンケーキ」!



おたま:それじゃあたしは、一番シンプルな定番のプレーンパンケーキを。

◆さすが江戸っ子おたま姐さん、そば屋ではモリ、スタバでも「本日のブレンド」しか頼まないもんね。

◇おかめ五目だの、キャラメルマキアートだの頼むのは田舎もん、わかってるけど注文しちゃう(^^ゞ

おたま:単に金がないだけって話もあるけど(^◇^)

◆目黒川の花見は一瞬で終えて、ゆっくり緑道を歩きながら、桜だけじゃないいろんなお花見ができたし、駒繋神社や葦毛塚も見られていいお散歩だった~

◇人の行く裏に道あり花の山、っていうんだよね。おたま姐さん、来年も人混みのない隠れお花見スポットを紹介してね!

おたま:裏に道あり花の山っていうのは、株の売り買いの話じゃないのかい? カネに縁のないあたしには関係ない話だねぇ。まぁ、花より団子、花よりパンケーキ、っていうオチはよくわかるけどね!
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蛇崩川緑道と駒繋神社
三連休中日の今日、三軒茶屋キャロットタワー3Fの生活工房ギャラリーで開催中の「世田谷区を"はかる"プロジェクト」に行ってきた。今日は主催者によるトークイベントもあり、スペース的には小さなギャラリーだが賑わっていた。

 http://www.setagaya-ldc.net/program/394/

 昨年末から今年1月にかけて、4回に分けて行なった「世田谷区一周区境ウォーク」(2017年11月2日のブログ参照)に、このプロジェクト主催者の一人である川上恭輔さんが参加して下さったご縁で行ってきたのだが、実際に歩いて体験したことが、数値的にビジュアル化されていて面白かった。



私たちはそれまで、川上さん達とも面識はなく、「はかる」プロジェクトのことも全然知らなかったので、メールで区境ウォークの申し込みを受けたスタッフが、「はかる」プロジェクトを「はるか」プロジェクトとうっかり読み間違え、「はるかプロジェクトって何だ? はるかっていう名前のアイドルのファンクラブか何か? なんか怪しげだなぁ~」などと言いながら、当日初めてお会いして、建築設計などにたずさわる若いアーティストたちが行っている「"はかる"ことから街の良さに触れるきっかけを作り、街を再発見するプロジェクト」なのだと知り、おおいに共鳴したのだった。

写真でスペースの真中に帯状に下がっているのは、世田谷区と隣接する市・区のそれぞれを町ごとに両端に記したもので、長い境界を持つ町ほど、大きな文字で町の名前が書いてある。世田谷区側は一つの町が長い境界を持っているのに向こう側の町はいくつもの町が並んで境界となっている所もあれば、その逆、あるいは両方とも同じような町割りになっている所など、文字の大きさで一目瞭然。
世田谷区上北沢と杉並区上高井戸は共に長い境界線を共有している所で、これは北西に伸びる形で開発された北沢用水に沿って、世田谷区が杉並区の間に嘴のように入り込んでいることから、複雑に曲がりくねった境界が出来、総距離が長くなったものである。

同じような境界は世田谷区の東側にもあり、本来、世田谷区と大田区の境界である所に、目黒区緑が丘がクサビのように細長く入り込んでいる。これは呑川流域が細長く目黒区となっているためだ。
 
このプロジェクトでは、夏休みに小学生を対象として、実際に自分たちの歩数などで距離を測り地図を作成してみるワークショップもやっているそうだ。"はかる"ことで発見した様々な現象について、さらにその理由を考察したり歴史的経緯を調べるなど、子供たちにとっても大変貴重な体験になるだろうと思った。
世田谷区を「はかる」



おたま:さて今日は、ウォークマップ出版の風人社最寄り駅でもある小田急線の世田谷代田駅からスタート、代田八幡から廻っていくよ。

◇あっ、見て! 富士山だ! こんな駅前から富士山が見えるんだね。

おたま:代田は知られざる富士ビュースポットなのさ。昔はお江戸の中心からでも富士山が見えたんだから、もっと西のここらへんからは見えて当たり前だけど。

◆昔は邪魔になる高い建物もなかったし、空気も綺麗だったから、よく見えただろうね~~

◇環七に出るとすぐ、代田八幡の大鳥居が見えるね。


◆あれ、歩道橋からも入れるんだ。なんか中二階みたいになってて面白い。


おたま:大鳥居のほうは明治以降のものなんだけど、脇の鳥居は天明五年(1785)に作られた、世田谷区で二番目に古い鳥居なんだよ。一番古いのは狛江市との境にある氷川神社の鳥居で、これより百年以上古いけど。

◇茅の輪くぐりがあるほうの鳥居だね。


 
おたま:環七からは、北沢川緑道を通って代沢へ向かうよ。


◆緑道入口に、世田谷一周ウォークのお知らせが貼ってあるね♪


◇ここは元・北沢川だったの? この前、芦花公園の粕谷八幡へ行く時に歩いた緑道は烏山川だったよね。



おたま:そう、烏山川は烏山の鴨池が水源の、本来の川だったけど、北沢川は湧き水や細い流れを調整して、北沢村の人たちが作った農業用水だったんだ。

◆わ~、立派な入口だ。これ北沢八幡? でもここ、神社じゃなくてお寺だよね。

おたま:ここは淡島(粟嶋)の森厳寺。九品仏や豪徳寺と並んで世田谷区名所の一つだよ。もともとは、これから行く北沢八幡の別当寺だったんだって。

◆別当寺っていうのは、平岩先生の代々木八幡と、その隣の斉藤弥九郎のお墓がある福泉寺の関係だよね。

おたま:そうそう。森厳寺は結城秀康ゆかりのお寺らしいけどね、境内にある淡島堂の施灸が大人気だったそうで「淡島さん」の名のほうが有名だね。



◇ほんとだ、入口に「淡島大明神」の立派な石があるね。あっ、道標も兼ねているのね。「北ほりのうち・よつやみち、東あをやま、南ゆふてんじ・めくろふとう」文化十一年だって。 

◆世田谷区の道標って、祐天寺や目黒不動関係が多いよね。

おたま:「北ほりのうち」にも、妙法寺や高円寺の寺町が今でもあるよね。

◆西の行き先は書いてないの?


◇世田谷区の西・・・畑や草っ原ばっかりで何もなかったんじゃない?


おたま:調布市や狛江市の人に怒られるよ!



◆北沢八幡、お詣りの人がたくさんいる~~


おたま:ここは「七沢八社随一正八幡宮」といわれているからね。八八幡巡りも、ここから始めるか、ゴールにするかっていうのが本当みたい。

◇ふーん、ここがトップなの? この前の八幡山の「ザ・八幡」が場所も真ん中だし、トップなのかと思った。

◆あっ、ここにも富士見ポイントがあるんだね。樹と樹の間から、うっすらと見えるよ!

◇昔はビルなど勿論、家も少なくて、ここから見える富士山はさぞ神々しかっただろうね~


おたま:さて次は、茶沢通りでもいいんだけど、一つ西側の鎌倉通りを行ってみよう。
 

◆あ、キャロットタワーが見える。三軒茶屋ゾーンに入って来たんだね~

◇家庭幼稚園って幼稚園がある。珍しい名前だね。なんか昭和っぽい。


 
おたま:戦後、鳩山さんたちと一緒に活躍していた政治家で曹洞宗の僧侶でもあった広川弘禅さんが作った幼稚園だね。弘禅さんが亡くなった時、奥さんの志津江さんが急遽身代わり候補になってトップ当選して話題になった。この幼稚園も長い事志津江さんが園長をしていたけど、今はお嬢さんの静さんが園長らしい。

◇鳩山さんって、鳩山ユキオ?

◆ちょっと、おたま姐さんの歳考えなさいよ。鳩山一郎さんだよ~


◇一郎さんかぁ。ユキオの父ちゃん・・・


◆お祖父ちゃんだよ!!


おたま:(怒)くだらない事言ってる間に、太子堂八幡着いたよ! 

◇太子堂八幡? このあたりの町名も太子堂なんだよね。聖徳太子の太子?

おたま:この近くにある円泉寺っていうお寺がここの別当寺なんだけど、南北朝の頃からそこに聖徳太子の像を安置した太子堂があって、ずっと太子堂という地名になってるらしいよ。この八幡も古いらしくて、八幡神社っていうと八幡太郎義家が奥州征伐の行き帰りの途中で寄って出来たっていう所が多いけど、ここにはもっと前から石清水八幡を勧請した神社があり義家たちがそこで勝利祈願をしたと伝えられているんだって。もともとこの辺には鎌倉道があってね、太子堂と若林の境から、北沢と代田の境の道を通って鎌倉へ道が通じていた(さっきの北沢緑道にも、鎌倉橋というのがあるんだよ)、だから結構開けていたのかもしれないね。

◆若林っていえば、世田谷区で一番古いのが若林小学校って聞いたことがある。

おたま:よく知ってるね。明治維新のすぐ後、太子堂郷学所っていう学校がこの辺に出来て、それが今の若林小学校なんだ。



おたま:さ、次は駒留八幡だよ。烏山緑道と世田谷線の踏切を越えて行こう。

◆わ~細い路地がいっぱい! さすが世田谷って感じ~~でも、おたま姐さん、どの道を行くの?

おたま:駒留八幡は環七沿いだから、適当に向こうの方に進めばどっかで環七に行きあたるよ。

◆アバウトだなぁ~

◇広い通りに出たけど・・・なんか様子が違う、これ環七じゃなくて世田谷通りに出ちゃったみたい?

おたま:あ~もうちょっと右寄りに行けばよかったかもね・・・

◇え~ウソ! どうしよう、迷子になっっちゃたの? あと二つも残っているのに~~

おたま:大騒ぎするんじゃないよ、世田谷散歩ってのは、迷うのも楽しみの内なの!! 世田谷通りをしばらく右に行けば若林交差点で環七に出るよ。

◆あ~ほんとだ、若林交差点に出た。よかったよかった!

◇交差点を過ぎてすぐ、右手に空き地みたいなのが見えてきたね。あぁ、ここが駒留八幡の裏手なのか。

◆駒留八幡は若宮八幡ともいうって書いてある。

おたま:ここを建てたのは世田谷吉良七代、吉良頼康という人で、祀られている若宮というのは頼康の息子にあたるんだよ。

◇吉良といえば、忠臣蔵の吉良上野介を思い出すけど・・・

おたま:吉良家は、清和源氏の流れ、八幡太郎義家の傍流でね。

◆嫡流は義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝と続くけど、実朝が暗殺されて断絶しちゃったよね。

おたま:そうそう。まず分かれたのが新田家で、初代新田義重は確か為義の従兄弟になるんだったかな。義重の弟義康の系統が、何代か後に足利と吉良になる。そして吉良は更に西と東に分かれて、西が三河、東が武蔵に拠点を持つわけ。

◇そうか~、三河のほうが三州吉良、上野介の祖先だね。

おたま:うん。そして、これは案外知られてないみたいだけど、東西に分かれた吉良の間にもう一人兄弟がいて、この人は今川家の祖になったんだ。

◆へ~知らなかった! 今川義元・氏真が、足利家の血筋っていうのは聞いたことがあったけど、吉良上野介とも遠い親戚!

◇そういや、キャラもちょっと共通してるかも♪

◆なるほど静岡の今川を間に挟んで、愛知県の三州吉良と、関東の武蔵吉良ってわけね。納得!!

おたま:それで、関東に行った吉良のうち、数代あとの吉良治家という人が世田谷城を拠点に世田谷吉良家と呼ばれるようになったんだ。世田谷吉良家は後北条氏と婚姻関係を結び、七代目頼康の時が最も勢力を伸ばした絶頂期だといわれる。もっとも、頼康の次の代には、北条家が秀吉に滅ぼされて、吉良家も終わっちゃうんだけど・・・

◇若宮のお母さんを祀ったのが厳島神社なんだって。この小さなお社かな?

おたま:吉良頼康の話が出たからには、常盤伝説の話もしなけりゃね。世田谷区の区の花に指定されている鷺草は、常盤の化身とも言われているし・・・

◆常盤って、源義経のお母さんじゃないの?

おたま:もう一人の常盤、この人は、世田谷七沢の一つ奥沢の城主の娘で、頼康の側にあがり寵愛を受けていた。七沢の所で話題に出たけど、今の九品仏浄真寺のある所は昔、城だったんだよね。台地を九品仏川の低湿地帯が取り囲んでいる天然の城郭で、その湿地帯に鷺草が群生していたんだって。頼康が常盤を見初めたきっかけが、鷺の足に結ばれた常盤の和歌だったとか、いろいろエピソードの盛り込まれた物語があるんだよ。

◇へ~面白そう。どんな話なの?

おたま:まぁ大ざっぱにいえば、不倫冤罪の悲劇っていうか、日本版オセロー? 常盤は世田谷のデズデモーナってところかね。常盤への寵愛をねたんだ側室たちが、常盤は家臣の一人と密通しており、腹の子もその家臣の子だと告げ口したことで、常盤はついに自害に追い込まれて胎児と共に落命。その後冤罪だったことがわかったという・・・

◆へぇぇ~~悲劇なんだ。世田谷区民はみんな、この話を知っているの?

おたま:どうだかねぇ。知らない人も多いんじゃないかなぁ・・・冤罪と知って激怒した頼康が、讒言した十二人の側室たちを全員処刑。八幡神社を建てて常盤の腹の子を祀り、境内に弁財天の厳島神社も作って常盤の霊を慰めたという。

◆十二人も処刑?! 他罰的な奴っちゃなぁ。シェイクスピアのオセローは自責の念で自害したのに・・・

◇全く、讒言を信じた自分がまず反省しろって話だよね~

おたま:オセローでは、白人vs有色人種という問題が大きなポイントになっているけど、男の嫉妬にはコンプレックスという要素が重要かもね。

◇あっわかる! 今BSで再放送している「花子とアン」で、白蓮の旦那さんが、どんなに財力を誇示しても妻を振り向かせることが出来ず、妻が求める文学の素養や教養が自分に欠けている事がわかっているけど認めたくないという・・・

◆吉田鋼太郎、最高だよね! あのドラマの後、舞台のオセローもやってたけど、苦悩ぶりが半端なかった。

おたま:常盤伝説があまり世に知られず世田谷限定になっちゃっているのは、コンプレックス問題とかがなく単なる権力者と愛妾ってだけの話に終わってるんで、今いち話にコクがないっていうか、インパクトが不足してるかもね~

◇さてあと残るは一つ、世田谷八幡だけだね。

おたま:途中にちょうど、常盤伝説の由来を説明した「常盤塚」も通るよ。

◆今、思い出したんだけど、駒留神社って、ずっと前に一度来たことがあると思うんだ・・・だけど、こんな環七みたいな広い通り沿いじゃなくて、なんか雰囲気もかなり違ってて・・・ずっと前のことだから記憶がずれてんのかもしれないけど。

おたま:あっ、それはね、あんたが前に来たっていうのは、この駒留神社じゃなくって、きっと駒繋(こまつなぎ)神社のほうだよ! 住宅街の中にあるんだけど、こんもりした森みたいな、ちょっと鬱蒼とした所だったでしょ。

◆そう、それだよ!! ここと違うの? 

おたま:世田谷区民でも結構、混同してる人が多いよ。世田谷八八幡の中に「駒繋神社」って間違って書いてあるサイトとかもある。駒繋神社は八幡様じゃなくって、子(ね)の明神(大国主命)を祀った神社。駒繋の駒は、源頼朝の愛馬で、七沢の一つ「馬引沢」の時に話した、葦毛塚ゆかりの神社なんだ。

◇駒留と駒繋、確かに紛らわしいよね~~

おたま:駒繋神社は、ここから目黒川に続いている蛇崩川緑道沿いだから、こんど目黒川の花見ついでにでも、行ってみようかね。

◆◇楽しみだな~~

おたま:また世田谷通りに戻って、西に進んでいくと世田谷八幡だけど、せっかくだから大吉寺のところで左に折れてボロ市通りをちょっと歩いてみようかね。

◇大吉寺、寺内大吉さんのお寺で伊勢貞丈先生のお墓があるところでしょ! 『目籠』の現場検証に書いてあったよね。

おたま:すごい記憶力だねぇ、書いた当人のあたしも忘れてたよ(^^;

◆これがボロ市通りかぁ。

おたま:大山街道の一部でもあるんだね。毎年1月と12月に開かれる世田谷ボロ市は、北条氏政から楽市の権利を与えられて、430年の歴史を誇るイベント。いつもはこんな静かな通りだけど、ボロ市の時だけ異常な混雑で、世田谷線も増便になる。

◇あっ街灯に「世田谷代官」って書いてある。お代官さま~~~

おたま:ここが代官屋敷だよ。敷地内にある郷土資料館は、知る人ぞ知る小さな資料館だけど、北条幻庵覚書など保管されている史料や時々行われる特別展示の内容充実ぶりには定評があるんだ。去年の年末にやっていた「地図で見る世田谷」展の図録も、こんなに厚いのが千円で、展示物すべての詳細な解説と全部の展示地図が入っているCD込み!

◆ふ~ん、今度ゆっくり来てみよう。ところで、今でもこうして代官屋敷が残っているくらいだから、世田谷の代官って土地の人たちに愛されていたんだね。

◇時代劇なんかだと「越後屋~~おぬしも悪じゃのう、イッヒッヒ」「ムッフッフ、お代官様ほどではござりませぬ~」みたいな感じの悪代官イメージが強いけどね。

おたま:明治維新まで代々ここの代官を勤めた大場さんは相模の豪族大庭氏の流れで、もともとは吉良家の老臣だったけど、北条・吉良が滅亡したあといったん帰農して、そのあと改めて徳川配下の井伊家の代官にリクルートされたらしいよ。

◇勤めていた会社が大企業に吸収合併されて、いったん脱サラしたけど新しい会社にまた就職したって感じかな。

おたま:それだけ大場さんに領地運営の手腕があったんだろうね。徳川にしても井伊にしても、出身地から遠い世田谷のこのあたり、最初は全く勝手がわからなかっただろうから、土地の人々と絆もあり信頼できる管理人が必要だったんじゃない? 今の世田谷区長は保坂さんだけど、前の前くらいまでは代々大場一族の大場さんが区長だったし、区内の学校のPTA会長とかも大場さんが多いんだよ。

◆そういえば世田谷区民だったことのあるタモリさんが「大場区長もお友達」って言ってなかったっけ、まだ「いいとも」やってる頃。

◇ここからは世田谷線の線路に沿っていくんだね。あ、世田谷線宮の坂駅前に出た。

おたま:宮の坂駅には、玉電時代の車輛が置いてあって、子供たちの遊び場にもなっているよ。

◆あっ、新旧の世田谷線車輛が並んだ!

おたま:宮の坂駅からすぐの世田谷八幡、なかなか堂々としたお宮だよね。八幡太郎義家が奥州での戦勝御礼に創建したとも、世田谷吉良氏がここを拠点にした時に鶴岡八幡を勧請したともいわれ、はっきりした由来はよくわからないらしいけど。毎年秋の大祭に行なわれる奉納相撲の土俵もあるんだよ。

◇本日のゴール世田谷八幡に到着!

◆ついに世田谷八八幡、クリアしました!

おたま:この勢いで、今度は江戸の八八幡詣で十五里に挑戦するか?!
 

※参考資料は前篇と同じです。もしかしてブログ開始以来最長?? 長々お付合いいただき有難うございました!

世田谷八八幡めぐり(後篇)


◆この前の「世田谷七沢」の話から大分たっちゃったけど、今日はその続きで「世田谷八八幡」を巡ってお散歩します!

◇お正月、七福神巡りもいいけど、八幡様もいいよね。

おたま:八幡様といえば、富岡八幡は災難だったよねえ。長助親分はじめ、深川の皆さんもさぞ歎いていなさるだろうに。

◇でもツイッター見てたら「鎌倉の鶴岡八幡宮も、実朝が暗殺されるという大事件があったんだから大丈夫!」って誰かが投稿してた。

◆そうだよね、人生なにごとも前向きに行かなくちゃね~

◇ところで、八八幡って、江戸全体にもあるんでしょ。

おたま:そうそう、江戸の八八幡(ややはた)詣でっていうのが本家本元だよ。『六阿弥陀道しるべ』(御宿かわせみ14『神隠し』)で長助親分が説明してくれてる。
「まずは八八幡詣でと申しまして、深川の富岡八幡、市ヶ谷の八幡、高田村の穴八幡、ちょいと遠くになりますが青梅街道の妙法寺の先の大宮八幡、ここはなんでも八幡太郎義家のゆかりの社なんだそうで、それから、ずっと戻って来て千駄谷八幡、青山を抜けて行きまして渋谷八幡、渋谷川を行きまして大木戸の先の田町が稗田八幡、それから赤羽橋を渡って来て西の窪八幡、つまり八軒の・・・」

◇あれ? 平岩先生のご実家、代々木八幡は入ってないの?

全員:・・・・・・

おたま:ま、まぁ何だね、代々木八幡は鎌倉時代の創建でわりと新しいから、場所的にかぶる千駄谷の八幡(鳩森八幡)や渋谷の八幡(金王八幡)に比べると新参者ってことで、奥ゆかしくご遠慮申し上げたんじゃないかねぇ。なんせお宮さんって、いつ創建されたかわかんないくらい古い所もたくさんあるからねぇ。とにかく長助親分の説明の続きを読むよ!
「つまり八軒の八幡詣でをするってえと御利益があるんだそうですが、なんてったって十五里も歩き廻るんで、一日でお詣りしようとなると、なかなかえらいことになります」

◆げっ、十五里!60キロを一日で?!

おたま:世田谷八八幡はそれに比べりゃ世田谷区内だけだし、それも今回は2回に分けて行くんだからずっと楽だよね。今日は西側の三つを巡りま~す。出発は京王線の下高井戸駅から。

◇駅前の通りをいくと小学校が・・・あ、ここがこの前話題に出た松沢小学校か。松原の松と北沢の沢で松沢、住所は赤堤だったよね。

おたま:小学校の前は五差路になっていて、前方右手にあるのが鯛焼きで有名な居酒屋「たつみ屋」さん。今日は正月でまだ店やってないね~残念。松沢小のPTAの打上げも、この先の日大の学生さんたちのコンパも、みんなここ!

◆日大文理学部・日大桜丘高校・区立緑丘中学校と、学校の並ぶ間を抜けて右折すると、まず最初が「勝利八幡」だね。

◇八幡様は応神天皇とその母神功皇后をお祀りして、戦の勝利をお願いする神様だけど、名前も「勝利八幡」っていうのは珍しいね。



おたま:万寿三年(1026年)に京の石清水八幡宮から勧請、もともとこの地にあった山谷稲荷の御神体と合祀して上北沢村の鎮守となってきた神社なんだね。天明八年(1788年)に再建された旧社殿は世田谷区の有形文化財になってるんだって。「勝利八幡」の名前から、スポーツ関係者の参拝が多いことでも知られているよ。

◇そういや隣は日大陸上部の寮だね。入口に「闘志なき者は退去すべし」って看板がかかってる。

◆う~ん気合入ってるな~。

◇勝利八幡の前を西へ進んで荒玉水道道路と赤堤通りを越えると、次の八幡宮が。

◆これは何八幡?

おたま:ここはね~ただの八幡(笑)っていうか「八幡山の八幡」。最寄りの京王線の駅の名が「八幡山」で、鳥居の扁額も「八幡社」「八幡宮」だけなんだよね。


 
◇○○八幡と言わなくても、八幡様といえば地元の人たちにはわかったって事よね。「ザ・八幡」っていうことか~

おたま:創建は鎌倉時代とも室町時代とも言われていて詳細は不明なんだけど、この八幡が出来て以来現在までこの地が八幡山と呼ばれているんだね。その前の中世時代は「鍛冶山」と呼ばれていて、鍛冶屋が使う炭をまかなう森だったとも言われてる。徳川幕府が出来ると井伊領になって、井伊家の御用林になったそうだよ。

◇「木材」は、大河ドラマの直虎でも、井伊家の重要なアイテムだったよね!

◆八幡山っていうのは、昔はこの辺って山だったの? あんまり高低差とか坂道も無いようだけど・・・

おたま:「山」って、平地でも樹木がこんもり茂ったところを言うこともあったみたいだよ。このあたりは、ずっと杉と雑木の林だったらしいけど、まぁ人里離れた所だったんだろうねぇ。『新編武蔵風土記稿』にも「山林の内」に鎮座していたとあるそうだから。でもここの山車は世田谷区内で一番立派なんだって。

◇あ、八幡山遺跡の立派な石碑が・・・。

おたま:ここから縄文時代の土器などが発掘されているんだよ。また、江戸時代のものと思われる炭焼窯も発掘されている。

◆明大八幡山グランドと日大学生寮の前を過ぎると環八だね。あっ、千歳台交差点の歩道橋に「七沢」の話題で出た「廻沢」の名が!

おたま:この交差点を渡れば芦花公園だけど、ちょっと戻って烏山川の流れをたどりながら、もう一つ北側の交差点で渡ろう。数年前まではまだ水路があったんだけど、今は緑道になっているよ。

◆このうねうね加減がいい感じ!

◇交差点を渡れば粕谷八幡が!本日のゴールだぁ~~

おたま:粕谷八幡のある蘆花恒春園、通称芦花公園は、徳富蘆花の旧宅と墓所で有名だね。蘆花は明治40年に粕谷村に移転、夫人と共に晴耕雨読の生活を送った。当時の粕谷村は、家が二十数戸しかない寒村だったけれど、蘆花はこの地に深い愛着を持ち「世界を一周してみて、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。」と書いているんだって。

◆そんなふうに言われたら地元の人は嬉しかっただろうね!



おたま:著書『みみずのたはごと』には、村の人々の生活や村祭りの様子などが詳しく書かれている。「徳富蘆花粕谷村入り百年記念碑」の裏側に当時の粕谷村の地図が描かれているね。

◇わ~ほんとに数えるほどしか家がない!

◆鳥居のそばに「別れの杉」の説明があるね。今は枯れてしまっているけど、蘆花が、訪ねてくる人が帰っていくのをこの杉の木の下で見送ったんだって。

◇この、切株が金属の笠をかぶっているみたいなのがそう?

おたま:うん、二代目の若い杉が植えられたけれど、古い切株も大切に保存しているんだね。蘆花の客だけでなく、その後の戦争で出征する村の若者たちを、村人が見送ったのもこの杉の木のところだったそうで、地元の人々には深い思い入れのあるものなんだろうね。
さっ、この次は残りの五つ、一気に行くからね!

参考:区制50周年記念 世田谷、町村のおいたち(世田谷区区長室広報課)
   せたがや社寺と史跡(世田谷区教育委員会)
   世田谷区史跡散歩(学生社)

世田谷八八幡めぐり(前篇)

◆おたま姐さん、最近、世田谷一周ウォークで忙しいんですってね。なかなか顔見せてくれないから、こっちから遊びに来ましたよ~

◇だけど、おたま姐さんは深川育ち、亡くなった旦那さんは丹波の出のお人だったそうなのに、なんで世田谷なの?

おたま:そりゃぁねぇ、亭主と知り合うもっと前にさ、むにゅむにゅ・・・そんなこたどうだっていいんで、あんた達も参加しなさいよ世田谷一周ウォーク。これまでの記録はこちらですよ。
http://www.fujinsha.co.jp/2017/11/21/seta-walk1-report/
http://www.fujinsha.co.jp/2017/12/05/seta-walk2-report/

◆◇え~~お花見の頃とか、景色のいい所をぶらぶらお散歩するならいいけど、この寒空の下で十数キロも、ひたすら区境を行軍するなんて、遠慮しときますわ。

おたま:しょうがないねぇ。それはそうと、世田谷には「沢」のつく地名がいろいろあるよね。「世田谷七沢」って言われているんだよ。

◆そうそう、多いよね! 七つどころじゃないんじゃないの? まずは本多劇場はじめ、演劇やアートの街、下北沢の北沢でしょう。北沢タウンホールもあるよね。

おたま:さすが~~早速正解です! JRが走らない世田谷区内では、南部は東急、北部は小田急・京王線と、私鉄が重要な役割を果たしているんだけど、下北沢は小田急と京王井の頭線の乗り換え駅。小田急下北沢駅は最近、地下に入ってしまったけど、井の頭線の下北沢駅のほうはまだ昔ながらのホームが使われているよ。

◆オリンピック公園の駒沢も沢がつく!

おたま:うん。でもね、駒沢というのは明治になってからの新しい名前で、昔は馬引沢っていったんだ。今の上馬・下馬も、馬引沢だったの。馬「牽」沢と書いてある史料もあるよ。なぜ馬引沢という名前がついたかというと、源頼朝が奥州征伐に向った時、乗っていた馬がここで沢に落ちて死んでしまったので、「今後このような沢地を行く時は、馬に乗らず馬を引いて行け」という命令を出したからなんだって。この死んだ馬のために建てた「葦毛塚」の碑が、今も下馬五丁目の世田谷区と目黒区の境の所にあって、次回のウォークで通る予定だよ。

◇そうだったのか~。そういや、「沢」も多いけど、「野毛」だとか馬関係の名前も多いよね。

おたま:東隣の目黒区も、東大教養学部のある「駒場」があるしね。このあたりは源平時代から、軍馬の往来が激しかったし、明治時代にも陸軍の騎兵隊の演習地で、マンション街の一角に秋山好古の名前のある碑が建っている「騎兵山」の跡があるんだよ。

◆北沢に馬引沢、三つめは・・・あっ、うちのイトコが世田谷区に住んでて子供が松沢小学校というのに通ってるっていってた。創立130年にもなる古い学校だっていうから、「松沢」も七沢の一つでしょ?

おたま:惜しい! 松沢というのはね、確かに古い名前なんだけど、やっぱり明治以降なんだ。明治になって、それまで細かい村々に分かれていた郊外が再編成された時、北沢・赤堤・松原の三つの村が合併して、松原の「松」と北沢の「沢」とで「松沢」になったの。赤堤は位置が真ん中なので、名前が残らない代わりに、村役場や学校が置かれた。だから今でも松沢小学校は住所は赤堤なのに名前は松沢というわけ。

◇そっか~。じゃ、もしかして「代沢」も、「代田」と「北沢」なのかな?

おたま:ピンポーン! その通りです。

◆うーん、あとはどこかな~

おたま:南のほう、多摩川に近いほうを見てごらん。

◇もう地図を見ちゃおう。あっ、あったよ! 奥沢に深沢。

◆奥沢って九品仏のあるところだよね。

おたま:そう、九品仏で知られる浄真寺は、四代将軍家綱の時に開基されたのだけど、もともとは奥沢城という城があった所で、今も境内に土塁の跡が見られる。奥沢城は世田谷城の出城で、世田谷城と同様、後北条氏と姻戚関係を結んていた吉良氏の支配下だった。

◇奥沢は奥のほうにある沢だから? 深沢は、深い沢があったのかな~

おたま:う~んどうだろう。深沢は、都立園芸高校のあるところで、明治41年に出来たこの園芸高校は、都市近郊型の農業の開発に大きな力となったんだよ。

◆えーと、あとは・・・あっ、「野沢」もあるよ。

おたま:ネット検索とかすると、野沢も七沢の一つにする説もあるんだけど、厳密には「野沢」は沢があったからじゃなくて、別の理由からついたものらしいんだ。江戸に幕府が出来てからも、このあたりは田畑のない未開拓地だったんだけど、17世紀半ば頃から多摩川河口の六郷領沢田という所から開拓者が来て次第に開かれ、沢田新田といわれるようになった。また葛飾の野村治郎右衛門という人も開拓に尽力した。というわけで、沢田の「沢」と野村の「野」で、「野沢」になったという。

◇そうなのかぁ~、でも他に「沢」のつく所は見つからないけど・・・

おたま:たぶん、これ以上は、世田谷区民でもわからない人が多いと思うんだけど、今はもう残っていない地名で、「池沢」村と「廻沢(めぐりさわ)」村というのがあったんだよ。池沢という地名は今は残ってないけど、このあたりの目黒川沿いの低地にかなり大きな池があり池沢と呼ばれていたらしい。池の端と思われる「池尻」の名は今もあるし、井の頭線の下北沢の次の駅が「池ノ上」だからね。

◆廻沢って、読み方は難しいけど、いい名前じゃない? なくなってしまったのは惜しいよね。

おたま:そうだよね。芦花公園のあたりだけど、地元の人も無くすのは惜しいと思ったんだろうね、バス停や通りの名前、歩道橋の名前などには残っているみたいよ。

◇えーと、北沢・馬引沢・深沢・奥沢・池沢・廻沢・・・まだ六つだけど、もう一つあるの?

おたま:実はですね。北沢が、上北沢・下北沢と二つありまして、それで七つなのです。

◆◇え~!?

おたま:区制50周年を記念して世田谷区が刊行した「世田谷、町村のおいたち」という資料にこう書いてある。
「世田谷は丘と谷が交互する土地ですが、この谷のいくつかには、ところによって小さな沼沢地――あるいはそれに近い低湿地――がありました。田にできるところは田にし、それが不可能ならば葦の生い茂るにまかせていたものです。このような土地を”沢”と呼んだようで、これが地名に使われています」
「七沢というのは馬引沢、池沢、深沢、奥沢、廻沢、上北沢、そして下北沢です。」

◇地図を見ると、上北沢と下北沢って、けっこう離れてるし、それぞれ独立してるっぽいよね。なんで同じ北沢がついたんだろう。

おたま:それは北沢用水という、玉川上水から分水して作った農業用水の、上流部分が上北沢、下流部分が下北沢なんだ。今はもう水の流れはなくて緑道になっているけど、このあたりの農地にとってとても重要な用水だったわけ。地図を見ると、上北沢のあたりの、杉並区との区境がとても変わった形をしてるでしょう。区境の北側は、甲州街道の高井戸宿だったわけだけど、上高井戸と下高井戸の間をぐさっと上北沢が上に伸びて突き抜けている感じ。これも上北沢の村の人たちが用水を開発した周辺が、流れに沿った形で村の区画になったからなんだよね。

◇◆なるほど~、土地の名前を探っていくと、その土地の歴史がいろいろわかるんですね~

おたま:世田谷区に限らず、地域の図書館には必ず、その土地の歴史に関する資料が揃えられているので、寄ってみると、「長く住んでいたのに、全然知らなかった!」という発見がありますよ!
世田谷七沢八八幡


詳細・お申込みはこちらから

http://www.fujinsha.co.jp/2017/10/27/setagaya-walk2017/


初企画??世田谷「区境一周」ウォーク始まります!

ネットの開花情報を見ると、今年は何故か埼玉県のほうが東京より早かったり、都内でも世田谷の砧公園は咲き始めなのに、世田谷より北の文京区のほうが満開になったようだった。それで先に小石川植物園のほうに行き、今日は神田川に沿って水源地、井の頭公園まで。
神田川の花見スポットといえば、椿山荘や芭蕉庵・永青文庫などのある関口と、新宿区と中野区の境にある小滝橋周辺、山手線線路を挟んだこの二箇所が有名だが、西の外れのほうにも、知られざるスポットがある。何より、週末でもジモティ老人が散歩しているくらいで、人がおらずゆっくり眺められるのが好い。

花曇りの空の下、小田急線豪徳寺駅から、北沢川緑道を歩く。世田谷区には多摩川や目黒川の支流で暗渠化された小さな川が緑道になっているものが多く、その周辺には北沢・松沢・奥沢・駒沢・深沢など、「沢」のつく地名が多数ある。「上馬・下馬」「駒留」「野毛」など馬に関する地名も多い。馬喰たちが沢ごとに水を飲ませながら、駒を引いて江戸の馬市へ向った名残であろう、かわせみシリーズにもそんな話があった。

      













緑道は入学式の日の丸が出ている緑丘中学校の横を通って上北沢駅前へ出る。途中にある早苗保育園の園庭にある松は江戸城の松と同じ株だという。
世田谷区北部は、桜上水・桜丘・桜一~三丁目など、桜のつく町名が多い。日大陸上部寮に掲げられた大学のマークも桜である。

京王線の線路と甲州街道を越えると、もう世田谷区ではなく杉並区で、杉丸くんというコミュニティバスのバス停が小刻みに設置されている。コミュニティバスの通る通りは昔の鎌倉街道だそうで、この通りが神田川を渡る橋が鎌倉橋である。

              













鎌倉橋の袂にある塚山公園から高井戸まで、川沿いの桜並木が満開で、下のほうの枝はすでに葉が出始めている。まさに三日見ぬ間の桜である。

              













桜がせっかく川面まで枝垂れて美しい姿を見せているのに、川がコンクリート壁が続くだけで味気ないのが残念。まぁもともと神田川は利便のための「神田上水」だったのだから京都の賀茂川のような風情を期待するのは間違いなのだろうが。
環状八号線の清掃工場の煙突も桜に包まれている。ゴミ焼却の熱を利用して温水プールが設置されている。

高井戸駅の周辺は、先日の播磨坂ほどではないが、ちょっとした花見スポット。井の頭線が桜の中の高架を走っている。

               













高井戸からはしばらく並木は途切れ、所々の小公園や空き地に一本桜があるだけ。
富士見ヶ丘駅と久我山駅の間の、井の頭線検車区のあたりで、また桜並木が復活する。

             













久我山駅のあたりは、神田川とその南側に流れる玉川上水が一番近づいている所だ。玉川上水は羽村の取水口から拝島・立川・小平を経て五日市街道に沿ってずっと流れ、井の頭公園の裏を通っているが高井戸から東は現在暗渠化されて、甲州街道に沿って緑道となっている。十年前は井の頭公園まで歩いたら、帰りは玉川上水に沿ってまた歩いて帰ったものだが、今はもうその元気はない(-_-)

曇り空からだんだん陽が射してきて、歩くと汗ばむほどになる。三鷹台駅前の立教女学院が23区の西端で、この先の神田川と井の頭公園は、北に吉祥寺市、南に三鷹市を分ける境となっている。

            













ゆうやけ橋に到着、さすがに公園に入ると人があふれている。始業式の後花見に繰り出したらしい高校生たち、カップル、家族連れ、老人グループなどなど。

         













吉祥寺駅方面から階段を下りて入る広場の入口は、今NHKでやっている又吉直樹原作のドラマ「火花」でも時々画面に出る所だ。

          













池を一回りして弁才天を眺め(お参りは省略)ちょっとカフェで休憩して井の頭線で帰宅。

          













夜、NHK-BSの藤沢周平「立花登」の第二弾を見る。続編が作られて嬉しい。第一弾では、高畑某が柔術道場の友人として登場していたがどうするのかと思ったら、友人は登場せず、新しいキャラが出ている。これって原作には出てきたっけ? さすがに同一人物を役者だけ変えて出すっていうのは憚られたのかなあ。


 

2017桜散歩その2 神田川から井の頭公園
深大寺・神代植物園には、年2回の植物園無料の日や、いつでも無料の水生植物園などに時々行っているし、深大寺がゴールの武蔵野ウォークイベントなどもあるけれど、「だるま市」はこれまで行ったことがなかった。何でも深大寺のだるま市は、全国三大だるま市の一つだという。あとの二つは、だるま生産量が日本一の高崎だるま市と、製紙工業で出る屑紙を利用して作られる富士市の毘沙門天祭だるま市だそうだ。

深大寺は東京郊外の北部を走るJR中央線と南部を通る京王線の間に位置し、三鷹駅と調布駅から、それぞれバス便もあるが、京王線の各駅からもいろいろなルートがある。今日はお天気も好いので、一番東寄りの京王線柴崎駅から、野川沿いに歩いていくことにする。
(ちなみに、かわせみの『玉川の鵜飼』で、おるいさん達が「日野の一つ手前の柴崎の宿から玉川に沿って登って行く」とあるのが、ずっと不思議に思っていた。柴崎駅は急行も止まらない京王線でも最も地味な駅の一つで、日野からも多摩川からもかなり離れているからだ。多摩モノレールが出来て「柴崎体育館前」という駅があるのを見てようやく、日野にも柴崎という町があって、それのことなんだと気がついた。日野の柴崎と、もっと東寄りの調布の柴崎と、何か関係があるのか全くの偶然なのか、検索してもよくわからない。)
                  

柴崎駅から甲州街道に出て西へ向かって進むと、間もなく野川と交差する。右折して川沿いを歩く。数年前のNHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」では、ヒロインが自転車に乗って野川辺を走る姿がよく写っていたが、平成21世紀になっても変わらぬのんびりした風情。散歩する老夫婦や、河原に出て遊んでいる保育園児のグループ。風はやや冷たいが、すっかり春になった陽射しが河原に濃い樹の枝の影を落としている。
十数分歩いて榎橋の所で、また右折して三鷹通りを北上。中央自動車道のガードをくぐると、左手はもう、神代植物園の水生園(初夏は花菖蒲ほかの水生植物が多数、無料で見られる)とその奥の深大寺城址になり、ガードを出てすぐ直接に裏口から入れるルートがないかずっと探しているのだが見つかっていない。
三鷹通りを進み交差点の東参道の道標を左折して、おなじみの深大寺通りに入る。いつもは静かな通りだが、今日は露店がぎっしりと立ち並び、まるで違った風景で、山門の前もうっかり通り過ぎそうな感じである。

                                                                                                                    これは通常の山門
        

 
山門をくぐり境内に入ると、だるま・だるま・だるま・・・の光景。一抱えもある大きなものからカラフルなミニだるままで。

       

 
虚子の胸像と「遠山に日の当りたる枯野かな」の句碑が境内にあるが、今日は虚子もだるまの店番に駆り出された格好である。おなじみの「鬼太郎茶屋」も珍しく存在感がちょっと薄い。

           

 
深大寺のだるまの特徴は、目玉が普通の●でなく、梵字を入れること。新しく求めたダルマの左目には物事の始まりを意味する「阿」字を入れて開眼し、心願叶ったダルマの右目には物事の終わりを意味する「吽」字を入れ感謝の意を込めて納めるのだそうだ。
お坊様じきじきの筆による「目入れ」を待つ行列が長々と続く。
とてもこの行列に並んで待つ根性はないので、小さなストラップを買って記念にする。梵字は目玉でなくお腹に書かれていて、傾けると目玉が飛び出すのがご愛敬。

       

 
不信心者にはこれで用済みのだるま市だが、午後から「お練り行列」があるので、それまでの時間つぶしにまずは蕎麦店へ。このぶんでは、蕎麦屋もどこも行列かと思ったが、信心厚い皆さんは、だるま選びや目入れ行列並びのほうにいるので、店はどこもそれほど混んでいない。いつもの「青木屋」さんで盛蕎麦を頼む。深大寺のお蕎麦屋さんはどこもコシがあって美味しいお蕎麦でハズレはないので、お財布に優しい所が一番よい。店内は半分くらいの席が埋まっているが、普段からみるとこれでも混雑状態らしく、臨時アルバイトのお兄ちゃんが、箸も取らぬうちからもう蕎麦湯を持ってくる。さっさと食し、回転率向上に貢献する。

          

 
時間つぶしで深大寺門から植物園に入場。高齢者割引が有難い(^○^) 
冬枯れで見るものはないかと思ったが、辛夷の芽や、マンサク、山茱萸など、春の訪れを感じさせる木々がいろいろ。


 
梅は終わりかけているが、大木の椿や、クリスマスローズ・福寿草などの草花も楽しめる。野草園はまだほとんど花は見つからないが、小さな小さな白い花が開きかけているのを、膝をついて熱心にカメラにおさめている人もいる。

   

 
花を上手に写真で記録できればいいなぁと、お仲間のブログなどを見てもよく思う。私は下手くそでいつも紙クズみたいにしか撮れない。カメラに頼らず心の中にとどめておいて、来年また見に来ればよいとも思うのだが、ついついシャッターを押しては「携帯カメラじゃやっぱりしようがないなぁ」とガッカリの繰り返し。
 
落ち椿
     

 
深大寺に戻ると、すでにお練り行列がスタンバイしていて、カメラを構えた人々も脇に並んでいる。講中の人々が小さい食膳のようなものを捧げ持っているのは「百味献膳」の儀式によるものだそうだ。雅楽衆を先頭に正装の僧侶たち・裃姿の講中・木遣り衆が続く。

                  

 
唱えられる聲明は比叡山以外では滅多に聞くことのできない天台宗に古くから伝わるものだというが、これらはすべて帰宅してからHPで見て知ったこと。


                 

 
帰りは、三鷹通りから野川沿いに折れず、そのまままっすぐ南下して往きと逆の西回りで、布多天神に寄る。非常に古い神社で、第十一代垂仁天皇の代の創建とも言われている。もっともその当時は菅原道真よりずっと前だったわけで、15世紀になって多摩川の洪水を避けるため、現在の場所へ遷座された時に道真を祀り天神となったそうだ。という事は元々は多摩川の川辺にあったらしいが、調布という地名も、多摩川の水で「布を調え」帝に献上したことからついた名といわれる。
                                            寛永期の狛犬
       




  
また江戸時代に甲州街道が作られてからは、『玉川の鵜飼』にも書かれていたように、上石原・下石原・上布田・下布田・国領の五宿が布田(=布多)五宿と呼ばれるようになり、布多天神社は布田五宿の総鎮守として、五宿天神ともいわれ道中の無事を祈る旅人たちの信仰も得るようになった(東海道・中仙道と違い、賑わうまではいかなかったかもしれないが)
調布駅から帰宅。

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話は全然変わるが、帰宅してNHK=BSの「五辨の椿」を見たら(「雲霧」のあとそのまま録画設定になっていたので)堺雅人さんが出ていたのでビックリ。これ何年前だろう。確かリアルタイムのときも見ていて秋吉久美子の悪女ぶりに感心した覚えがあるけど、堺さんが出ていたことは全然記憶になかった。まだ主役級ではなかったけど、結構いろいろなドラマに出ていて良い味を出していたんだなぁ。今見るとなんとなく真田源次郎に見えてしまい、何かやらかしそうな期待を持ってしまう(笑) 

深大寺だるま市

先月末からずっと、雪国の方々には申し訳ないような冬晴れの日が続いている。久しぶりに百草園を訪れてみることにした。京王線の百草園駅が最寄りだが、園のサイトに、特急も停車する聖蹟桜ヶ丘駅からのウォーキングコースマップが載っているので、それを印刷して持っていく。
駅西口を出ると、川崎街道が京王線に平行して伸びている。このあたり(多摩市関戸)は、鎌倉幕府が関所を置き、その後太平記の時代に、北条幕府軍と新田義貞軍が戦った「関戸の合戦」の舞台であるが、特に古い歴史を感じさせるようなものは無く、バスや車が走る普通の郊外の大通りである。
川崎街道を西へ10分ほど進むと、多摩・八王子地域を環状に走る野猿街道と交差する一の宮交差点へ。このインパクトある街道の名は八王子の野猿峠に由来する。野猿街道の向こうは日野市になる。
マップに従い、交差点を渡って「産直問屋・温(ぬくもり)市」の裏手にある細い道に入ると、様相は一変して、里山の中の住宅地という雰囲気になる。「モグサファーム」というミニ牧場?があり、牛が一頭ランチ中である。牛小屋の壁も牛と同じデザインになっているのが微笑ましい。

     

左手にS字の坂が見えた所でそちらに道を取り、道なりに坂を上っていくと間もなく百草園の正門が見えてくるが、門を入らずに左へ進んで、先に百草八幡宮に参拝する。百草八幡宮は、源頼義・義家親子が奥州征伐の途に武運を祈り建立したのが始まりとか。まぁ関東一円の八幡宮は皆そうなのであるが。

                            

八幡宮の別当寺であった松連寺の碑というのもある。百草園内のお休み処「松連庵」は多分その名にちなんだものだろう。

   

八幡宮から百草園の裏手に入れるようになっており、いろいろと園の歴史などを説明したパネルが並んでいる。八幡宮や松連寺とは別に、平安時代から中世にかけて武蔵の地にあったとして、いろいろな文献に出てくる真慈悲寺という大寺院の遺跡もあるらしく、複雑な由来があるようだ。

      

園内は紅白の梅が咲き始めたところで、ロウバイもまだ盛りである。水仙や福寿草、マンサク、ミツマタなども。

   

芭蕉句碑「志ばらくは花の上なる月夜かな」(左)
右の「芭蕉天神」は、日野市七生村の村長の先祖にあたる土方誠助という篤農家が、学問の大切さを伝えるために祀ったという。土方歳三の親戚筋? 

                      

恒例の梅祭りは明日からなので、売店も閉まっていて静かだ。梅林の中の散策路を登っていくと、雪を戴いた富士山が綺麗に見えたが、残念ながら携帯カメラでは捉えられなかった(-_-)

               

帰りは正面入り口へ続く階段を下りて、百草園通り(松連坂)を百草園駅へ向かう。大変な急坂で、往きにこれを上らず、時間はかかるが聖蹟桜ヶ丘からモグサファームとS字坂経由にして正解であった。坂の上り口のところに、砂土地蔵尊がある。

           

坂を下りると川崎街道で、百草園駅はすぐだが、駅前を少し通り越して、真照寺という真言宗寺院へ向かう。ここに環境省が絶滅植物に指定している「多摩の寒葵」がある。

          

入口の近くに、立札があって数株植えられているが、ひっそりと存在していて探さないとわからない。裏山に自生地があるというが、とくに標識もない。墓地の間を抜けて裏山を一周してみる。

     

途中に「晴れた日にはスカイツリーが見えます」という札が立っていて、眼をこらすがよくわからない。自生しているという寒葵もなかなか見つからない。竹の根元と、他の灌木に隠れるようにしてようやく、境内に植えられていたのと似たものが見つかったが、葉の形(もう少しとんがっている)や、色(境内のは黄緑がかっていたが、こちらは深緑である)など微妙に違うので、別種の葵かもしれない。

そういえば徳川御紋の葵は「フタバアオイ」で、別種なのだそうだ。多摩といえば最後まで官軍に抵抗して徳川に殉じた新選組のご当地でもあり、その地に貴重な葵が咲くとは素敵な歴史のロマンだと思ったが、全くの偶然にすぎないようだ。
植物サイトで調べると、この寒葵の花も珍しい色と形をしている。4-5月が花期だというので、その時分にまた来て、裏山の自生地についても確認してみたい。

百草園駅前の花屋さんに、色とりどりの春の花の小鉢が並んでいる。どれも花つきが良くて安価だ。 プリムラと八重咲のジュリアンが、うちの近所で売っているののほぼ半額なのを発見。早速GETして今日のお散歩は終了♪

百草園と真照寺

朝日新聞販売所が隔週(東京以外は月イチ)発行し、新聞と一緒に配達される「定年時代」というタブロイド判のフリーペーパーがある。これに連載されている「さわやか散歩道」というコラムが、このところ、お散歩好き達の密かな注目を引いている。昨年とりあげられた日本唯一の「気象神社」も貴重な記事だった。

本日は、この最新号のコラムを参考に、原宿散歩を試みた。
昼前に梅ヶ丘図書館で雑用を済ませ、小田急線で参宮橋へ。
「時間にゆとりがある人は、原宿の街歩きの前に、明治神宮を参拝してもいい」とあるのに従って、まずは西参道口から境内に入ってみる。朝のうちは曇り空だったが、良い具合に陽射しが出てきた。
西参道はいつものように人影も少なく、静寂な佇まいだが、本殿に近づくといやに混雑していると思ったら、今日は新横綱稀勢ノ里の土俵入りがあるのだった。土俵入りは3時過ぎからの予定らしいが、正午を過ぎたばかりというのに、あちこち大変な行列が出来ている。

明治神宮で私が一番好きなスポットは実はここ(笑)向かいには葡萄酒樽も奉納されている。

      

南参道から正門を出て、神宮橋を渡る。まずは交差点の「銀だこ」で腹の虫養い。テイクアウト専門店のように見えるが、実は左手にエレベーターがあり2階にイートインがある。神宮境内や表参道の通りの賑わいにも関わらず、店内は誰もいなくて、ゆっくりたこ焼きを味わう。

     

表参道から右折して明治通りへ。コラムの最初に紹介されている慈雲山長泉寺へ向かう。明治通りと山手線線路の間に位置する寺だ。
本殿の裏の墓所は墓石が隙間なく並び、土手の上をひっきりなしに走る山手線が見える。山手線の築堤の際は急な石段になっていて、ここに石仏群が並んでいる。昔から民間で作られてきたと思われる素朴な石仏たちで、宅地造成中に発見され集められたものが二百体以上あるそうだ。
大部分が地蔵尊で、その他各種観音像もあるという。「童子」の文字が見えるものが多い。大きめの石仏には寛文年間とある。明治42年の「鐡道轢死者供養塔」もある。

     

長泉寺は曹洞宗の禅寺で、康平六年(1073)川崎土佐守基家により建立された。川崎基家は源義家の奥州征伐に従い、その軍功により渋谷・赤坂・麻布に渡る土地を拝領、この渋谷の地に草庵を開いたのが開基とされる。その後12世紀半ばに、観音堂が建てられ、渋谷金王丸の守り本尊といわれる「人肌聖観世音菩薩」が祀られた。
  
長泉寺から明治通りを神宮前交差点へ戻り、太田記念美術館へ。

     


広重の「江戸名所百景」のパロディ?「江戸名所道戯尽」や、「青物魚軍勢大合戦之図」などを描いた幕末の浮世絵師、歌川広景の展示があり、今日は学芸員のスライドトーク解説もあってじっくりと学習できる。浮世絵版画についてはまだまだ、新しい発見が現在進行形でなされているようだ。とても興味深いお話が聞けたので、別項で改めて取り上げたい。

展示を一通り見た後、地下売店の「かまわぬ」でいろいろなデザインの手拭を見ていると、あっという間に時間がたってしまう。

明治通りを北上し、東郷神社へ。祭神が日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎であることはよく知られているが、「東郷平八郎命」と「命」がついているのに改めて気が付く。(そういえば命と尊ってどう違うのだろう?)
数年前にNHKドラマになった「坂の上の雲」でもハイライトシーンだった広瀬中佐殉職シーンの絵などもかかっている。渋谷の市街の喧噪は聞こえず、タイムスリップしたようなスポットである。

      

 東郷神社境内から、渋谷区中央図書館の前を通って明治通りに戻る。歩道橋のところで右へ道を取り、神宮前三丁目交差点で外苑西通りへ出る。この辺は、渋谷区・新宿区・港区がぶつかり合っている所で、このまま外苑西通りを横切って進めば、すぐ左手は「はいくりんぐ現場検証」の「月と狸」でご紹介した、河内山宗俊の墓のある高徳寺である。その先は「女同士」の舞台となった北青山、神宮外苑・秩父宮ラグビー場の銀杏並木となる。

今回は、外苑西通りを左折して北上する。

   

このあたりの道の右側の見晴らしは、2020年のオリンピックに向けて再開発中なので、今だけの景観であるとコラムにあった。街のスポットというのは、出来上がれば何十年も続くおなじみの風景になるが、出来上がるプロセスはその時だけのもの、日一日ごとに変わりゆく景色だ。
スカイツリーも、ずっと以前の「現場検証」でたまたま写り込んだ、工事が始まったばかりの時の芽を出したタケノコのような風情の姿や、半分が出来上がり桜の中にある風景など、今にしてみると貴重な記録である。

今日は午後から晴れて、歩いていると少し汗ばむくらいの散歩日和だったが、そろそろ日が翳り始め、夕風も出てきた。左手に東京体育館、これに沿って左折すればJR千駄ヶ谷駅、右へ行けば信濃町である。
一駅間だけの散歩だったが、このようなちょっとしたコースをたくさん、お気に入り散歩道の引き出しに入れておきたい。

原宿散歩