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2月26日~3月20日、メトロ三越前駅の地下コンコースで、「街道観光展」が行われた。これは昨年夏、観光庁が「テーマ別観光による地方誘客事業」の一つとして街道観光を採択したことによるもので、NPO法人全国街道交流会議と名橋「日本橋」保存会が主催する、日本百街道展も合せて開催された。

     


     
三越前駅の改札を出て地下コンコースに入ると、まずは17mに及ぶ絵巻「熈代勝覧(きだいしょうらん)」が目を引く。二百年前の日本橋(現在の中央通り)が克明に描かれた絵巻物の複製である。平成21年に、名橋「日本橋」保存会・日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会・三井不動産株式会社が設置したものである。

     

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝れたる景観」を意味し、題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたものと判明しているが、絵巻の作者は不明である。原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されており日本には無く、江戸東京博物館がフィルムを所蔵しているだけであった。日本橋再開発にあたり、ベルリンの許可を得て江戸博のカラーポジフィルムからその全体監修のもと複製され、日本でも手軽にこの絵巻に接することが出来るようになった。

この「熈代勝覧」がこの地下コンコースの、いわば常設展であり、他のスペースは時に応じていろいろな展示が行われる。日本橋が五街道の起点であったことから、街道関連の展示もたびたび行われてきた。
今回は「百街道」と称して全国に広がる旧街道を始め、山の辺の道、復興支援道路「相馬福島道路」など、新旧のさまざまな道が紹介されている。

   

 
  「鯖街道」はよく知られているけれど、「鰤街道」「鮨街道」もあるんだ~ 
 
   












大河ドラマ直虎ゆかりの浜松のPRも。静岡県は東海道のメインパートであり、東海道新幹線でも最も多くの駅を有している(しかし、のぞみの止まる駅は何故か無い・・・ことは深く追求しないように)
日本地図センターによる街道関連書籍の販売も行われ、我が社の東海道・大山街道マップもしっかり参加させていただいた。













※今回より、「お散歩日記」カテゴリーから、街道関連を独立させて新しいカテゴリーにしました。お散歩日記は純粋に個人的に歩く基本的に半日~日帰りコースのお散歩日記で、街道は業務関連(?)を始め、街道に関する読書やイベントも含みます。
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日本橋 街道観光展
3月6日~17日、朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの・わたしの半生」という連載コラム(インタビュー?)に、建築家・建築史家の藤森照信さんが登場されていたのを興味深く読んだ。
新聞を購読していない人も、↓でデジタル版を読めますよ(*^_^*)
http://www.asahi.com/topics/word/%E8%97%A4%E6%A3%AE%E7%85%A7%E4%BF%A1.html

このブログの読書日記の前身である、ホームページの「ストファ図書館」で、はなはなさんが藤森さんの著作をいくつか紹介して下さった。
http://sfurrow.warabimochi.net/gensan/gb_books/gb_books.html

これを機会に、まだ読んでいなかった藤森さんの著作を何か読もうと思い、何にしようか迷ったが、業務関係(?)もあって、『路上観察 華の東海道五十三次』(文春文庫ビジュアル版)を図書館で借りてきた。朝日連載の第5回に取り上げられていた「路上観察学会」に興味を覚えたことも理由である。



路上観察学会というのは、1986年に下記の5人のメンバーを中心に発足した会で、もちろん厳密な意味での「学会」ではないが(山野勝会長・タモリ副会長の「坂道学会」のもう少し大規模版のようなものか?)、「路上に隠れ潜む通常は景観・美観・とはみなされない建物、看板、貼紙などを採集、博物誌的視点や見立てによって解読」する活動を行っている。
5人のメンバーは

赤瀬川源平:画家・前衛芸術家、1981年には尾辻克彦名で芥川賞を受賞、作家としても活躍
藤森照信:東大建築史科教授、建築家としても数々の賞を受賞
南伸坊:「ガロ」編集長を経てイラストと共に文も書く「イラストライター」として活躍
林丈二:デザイナー。マンホールの蓋やブロックの穴のデザイン等について独自の研究
松田哲夫:筑摩書房編集者、「路上観察学会入門」出版が会の立ち上げとなった

46~47年生まれの藤森・南・林・松田よりも10年ほど先輩だった赤瀬川さんは、非常に残念なことに、2014年に亡くなられたが、残る団塊世代の4人は現在も幅広く活躍中である。

この『路上観察 華の東海道五十三次』という本が出版されたのは1998年、ほぼ20年も前のことで、街道歩きなどという事は今よりももっとずっとマイナーだったし、私自身も全く興味外だった。
発行は文春だが、企画制作は「株式会社同文社」とあるので、この会社のこと、企画制作のいきさつを知りたいと思って検索してみたが、同名の会社はいくつかあるものの、それらしい社のHPさえ見つからない。今はもう無い会社なのか? 私も自分が極小出版社に勤務するようになって初めて、世の中には誰も知らない小さな出版社や誰も知らない出版物というのがウンカの如くあって、その実態は非常にわかりにくいという事を知ったのだけれど、、、
この企画がもう少し遅ければ、我が社が企画制作を担当するということも、あり得たかもしれないのだよなぁ。

もっとも、5人のセンセイ方も本業が超多忙であっただろうし、路上観察は必ずしも街道全踏破を目的とするものではないので、5人のうち2~3人が一組となり、それぞれ東海道の一部分を担当して、それも「宿場をひと回りして、写真を撮って、次の宿までは「じどうしゃ」や「でんしゃ」で飛ばす」「昔にくらべりゃ、ずいぶん楽な旅」(南伸坊さんあとがき)という制作方法であったらしい。
本書の構成は、東海道五十三次の各宿場(+日本橋・三条大橋)ごとに分けて、ごく簡単にまとめた「由来」「見所」「珍品」(普通のガイド本的な部分はここだけ)、それに各人が見つけた路上観察物の写真とコメントが並んでいる。もちろん、一般の東海道ガイド本ではスルーされている、いや最初から撮影対象の埒外にあるものが大部分だが、たまに東海道を歩く人は必ず立ち寄る寺社の狛犬や石造物なども細かい観察で取り上げられていたりする。
5人それぞれによるあとがきも愉快で、5人の興味の対象やアイデアも、全くバラバラなのだが、既成の価値観とか権威に捕らわれないという所が共通しているのかもしれない。

私が一番共感したのは、松田哲夫さんが書かれている、東海道はそのメインである「海道」よりも、現在の新幹線や東海道線から離れた、鈴鹿峠あたりから京都の近くまでの部分が一番面白いという所だ。これは実際に歩いてみると本当にそう思う。三重県から滋賀県にかかるあたりだろうか。東海道について一番知らなかったところ、一番アクセスが悪く、行き帰りに苦労する所が最も楽しく思い出に残るものである。
路上観察東海道
昨日の記事に追加しようかと思ったが、大分長くなってしまったので、別項にする。

昨日の大山まちづくりサミットの前に寄った「山口家住宅」の山口氏は、もともと筑前黒田藩の家臣であったともいわれるが、詳しい出自は不明。江戸天和年間に、現在の伊勢原市である相州上粕谷村に定住し、旗本間部家に登用されて勝手御用を勤めることになった。この間部家とは、ドラマ「忠臣蔵の恋」の中で礒貝十郎左衛門様と瓜二つの(@_@)あの間部詮房の分家で、詮房の弟、詮之を祖とする「本所間部家」である。もう一人の弟、詮衡(藤沢周平の『市塵』にチラっと出てくる人)は、「赤坂間部家」を興した。

上粕谷村は本所間部家の所領であったため、山口家はその後、所領の管理を任されることになり、民家であった家は代官屋敷として、武家屋敷風に改装された。しかしその時はもう幕末で明治維新となってしまい、実際に代官屋敷として使われたのは二年ほどで、その後は山口家の個人住宅としてずっと維持されている。
本所の殿様が来られる時に宿泊所となった二階の部屋は、障子・柱・違い棚など、趣向を凝らした細工がいっぱいで素晴らしい。しかしセキュリティ上、外からは二階のあることがわからないように作られて(要するにロフト)おり、さらに殿様宿泊の時には二階に上がる階段を隠す釣り板戸もつけられている。
通常の大山道ウォークは、赤坂御門跡~大山であるが、ここ伊勢原の地元の皆さんは、赤坂を通り越し、本所の御屋敷まで歩くウォークを、定期的に行っているそうである。

明治以降、この山口家住宅は、自由民権運動の拠点という役割も果たした。明治5年に家督を継いだ八代目山口佐七郎が、湘南社という、相州最初で最大の自由民権結社の社長となったためである。もっとも、ガイドの方の説明によれば、武州の自由民権運動に比べると、相州のそれは、裕福な地主層による、運動というより勉強会のようなものだったという。夜、会合に集まった人々がそれぞれ手にして来た提灯をしまう箱が今でも壁にずらりと並んでいる。

山口家の庭は梅林と茶畑になっており、庭続きには雨岳文庫という小さな資料館があって、旗本間部家・大山詣り・地元の農業などに関する史料が保管されている。山口家住宅も、文化財として維持されているだけでなく、味噌づくりなど、地元のコミュニティの場にもなっている。
このような歴史ある住宅を保存していくための、メンテの苦労は並大抵のものではないと思うが、山口家子孫の方々の熱意と周辺地元の皆さんの郷土愛に感動を覚えた。

さて、伊勢原といえば、大山詣りと共に、太田道灌最期の地としても有名である。
まちづくりサミットにも「太田道灌を大河ドラマに」のキャンペーンコーナーが出ていたが、毎年10月に「道灌祭り」が開催され、太田道灌に扮した人気俳優がパレードを行う(昨年は三田村邦彦氏)。
太田道灌資長は、関東管領扇谷上杉氏の家宰で、優れた戦国武将であると共に築城の名人として、江戸城ほか多くの関東の城を築いた。しかしその卓越した才が主の疑惑を招く結果となり、上杉定正の居館で暗殺されてしまう。それがここ、上杉家館のあった上粕谷の地であった。

道灌の墓所を始め、上粕谷のあたりは、道灌ゆかりの山吹が多数植えられていて、春になると一面の金色がまぶしい。

ところで、大河ドラマといえば、北条早雲も小田原市が長年アピールを続けていながら一向に実現の気配がないが、北条早雲と太田道灌は同年の生まれであるという。司馬遼太郎の『箱根の坂』では、この二人の対面場面もある。
この際、伊勢原市と小田原市は手を組んで、早雲と道灌、二人の同時代人の生き方を対比させた大河ドラマの実現に向けてアピールするのはどうだろうか。同じ小田急線沿線なんだし。
大山詣りと太田道灌の里、伊勢原