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昨日の記事に追加しようかと思ったが、大分長くなってしまったので、別項にする。

昨日の大山まちづくりサミットの前に寄った「山口家住宅」の山口氏は、もともと筑前黒田藩の家臣であったともいわれるが、詳しい出自は不明。江戸天和年間に、現在の伊勢原市である相州上粕谷村に定住し、旗本間部家に登用されて勝手御用を勤めることになった。この間部家とは、ドラマ「忠臣蔵の恋」の中で礒貝十郎左衛門様と瓜二つの(@_@)あの間部詮房の分家で、詮房の弟、詮之を祖とする「本所間部家」である。もう一人の弟、詮衡(藤沢周平の『市塵』にチラっと出てくる人)は、「赤坂間部家」を興した。

上粕谷村は本所間部家の所領であったため、山口家はその後、所領の管理を任されることになり、民家であった家は代官屋敷として、武家屋敷風に改装された。しかしその時はもう幕末で明治維新となってしまい、実際に代官屋敷として使われたのは二年ほどで、その後は山口家の個人住宅としてずっと維持されている。
本所の殿様が来られる時に宿泊所となった二階の部屋は、障子・柱・違い棚など、趣向を凝らした細工がいっぱいで素晴らしい。しかしセキュリティ上、外からは二階のあることがわからないように作られて(要するにロフト)おり、さらに殿様宿泊の時には二階に上がる階段を隠す釣り板戸もつけられている。
通常の大山道ウォークは、赤坂御門跡~大山であるが、ここ伊勢原の地元の皆さんは、赤坂を通り越し、本所の御屋敷まで歩くウォークを、定期的に行っているそうである。

明治以降、この山口家住宅は、自由民権運動の拠点という役割も果たした。明治5年に家督を継いだ八代目山口佐七郎が、湘南社という、相州最初で最大の自由民権結社の社長となったためである。もっとも、ガイドの方の説明によれば、武州の自由民権運動に比べると、相州のそれは、裕福な地主層による、運動というより勉強会のようなものだったという。夜、会合に集まった人々がそれぞれ手にして来た提灯をしまう箱が今でも壁にずらりと並んでいる。

山口家の庭は梅林と茶畑になっており、庭続きには雨岳文庫という小さな資料館があって、旗本間部家・大山詣り・地元の農業などに関する史料が保管されている。山口家住宅も、文化財として維持されているだけでなく、味噌づくりなど、地元のコミュニティの場にもなっている。
このような歴史ある住宅を保存していくための、メンテの苦労は並大抵のものではないと思うが、山口家子孫の方々の熱意と周辺地元の皆さんの郷土愛に感動を覚えた。

さて、伊勢原といえば、大山詣りと共に、太田道灌最期の地としても有名である。
まちづくりサミットにも「太田道灌を大河ドラマに」のキャンペーンコーナーが出ていたが、毎年10月に「道灌祭り」が開催され、太田道灌に扮した人気俳優がパレードを行う(昨年は三田村邦彦氏)。
太田道灌資長は、関東管領扇谷上杉氏の家宰で、優れた戦国武将であると共に築城の名人として、江戸城ほか多くの関東の城を築いた。しかしその卓越した才が主の疑惑を招く結果となり、上杉定正の居館で暗殺されてしまう。それがここ、上杉家館のあった上粕谷の地であった。

道灌の墓所を始め、上粕谷のあたりは、道灌ゆかりの山吹が多数植えられていて、春になると一面の金色がまぶしい。

ところで、大河ドラマといえば、北条早雲も小田原市が長年アピールを続けていながら一向に実現の気配がないが、北条早雲と太田道灌は同年の生まれであるという。司馬遼太郎の『箱根の坂』では、この二人の対面場面もある。
この際、伊勢原市と小田原市は手を組んで、早雲と道灌、二人の同時代人の生き方を対比させた大河ドラマの実現に向けてアピールするのはどうだろうか。同じ小田急線沿線なんだし。
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大山詣りと太田道灌の里、伊勢原

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