昨夜NHK教育テレビの古典芸能番組で、厳島観月能「羽衣」「高砂」と共に「紀州徳川家版・石橋」が放映された。
「石橋」はいわゆる"唐獅子牡丹"で、お能としては比較的新しい曲であり、歌舞伎に近い、わかりやすい華やかさのある人気作品であると、一般の解説書などには説明されている。
私は初めて「石橋」を見たのは平成26年の三月、国立能楽堂恒例の能楽研修修了発表会を兼ねた「青翔会」で、シテは浅見重好(観世流)、ワキは喜多雅人(福王流)だった。浅見氏は1960年生まれで青翔会出演者としては最ベテラン組であるが、喜多氏は三十代前半の若手である。もっともこの青翔会には平成生まれもゴロゴロ出演していて、21世紀生まれが登場するのも間もなくだろうと思われる。
この時の「石橋」は半能で、ワキの名乗りの後すぐに獅子の舞となり、樵も仙人も登場しなかったが、シテの白獅子に加えて、ツレの赤獅子(角幸二郎、1975年生まれ)、赤白の二頭の獅子が、これも紅白の牡丹にたわむれながら連れ舞う姿は豪華絢爛で、「お能にもこんな派手なのがあるんだ」と興味深かった。若手能ならではのパワフルな舞台だった。
二度目は昨年五月の五雲会@宝生能楽堂。これも若手中心の会だ(シテ内藤飛能、ツレ辰巳大二郎・宝生流、ワキ則久英志・下掛宝生流)。
こちらは半能ではなく、ワキの寂昭法師大江定基が唐の清涼山に着き、文殊の浄土へ至る石橋を渡ろうとすると、ツレの樵童が橋の危険さを述べて去るという前場が、獅子の舞の前に演じられたが、正直あんまり記憶に残っていない。
後場の獅子の舞はシテ一人だけで、青翔会の時の連れ舞いの記憶に比べると、ちょっと寂しい感じもした。演出によっては四頭も出てくるのもあるらしい。また、親子の獅子が登場し「獅子は子を谷に落とす」を表現する舞もあると聞く。
ちなみに宝生流では、樵童はツレが演じるのであるが、観世などでは樵童が前シテ、獅子が後シテになるため、樵童の中入後、間狂言の仙人が登場して、清涼山の解説とか、「これまでのあらすじ」をまとめて述べたりする。小学館の謡曲集テキストもそうなっているが、私の見た五雲会は宝生流なので、樵童と獅子は別人(シテ&ツレ)であり間狂言の部分は無かった。
今回のNHKのは喜多流(香川靖嗣:シテ・樵童/獅子、宝生欣哉:ワキ・寂昭法師、大蔵教義:アイ・仙人)だが、間狂言が演じられるので、その部分は初めて見ることになる。
「石橋」の間狂言といえば、平岩弓枝先生の直木賞受賞作『鏨師』を表題作とする短編集の中に、『狂言師』という寛永の頃の能楽師・狂言師を扱った作品があり、これが能「石橋」それもその間狂言をめぐる物語なのである。
これを読んだ当時は、まだ能楽は見たこともなく興味もなく、したがって読んでも全く訳がわからなかったのであるが、わからないにも関わらず、何故か強烈な印象を残す物語だった。一口で言ってしまえば、芸のために命を懸ける…という話であるが、鼓を打つか打たぬかで遠島だの打ち首だのって、とんでもない話だなぁ、いったい史実なんだろうか?とか、要するに鼓師と狂言師の確執なのであるから、シテがちゃっちゃと出て来ておさめればいいのにとか思ったりもした。
しかしわずかここ数年であるけれど、時々お能に触れる機会を持つようになると、まさか現代ではこの物語のような事がある訳はないが、ある意味あってもおかしくない、というような、なにか張りつめたもの、緊張感が感じられるようになっている。少なくともそうした歴史を背負っている事は確かだという雰囲気を感じる。
この正月には初めて「翁」も見ることができ、『狂言師』の冒頭に出て来る面箱とか翁・三番叟の面の話もようやく理解できた。そういえば宝生能楽堂で正月の「翁」の面箱を務められていた大蔵教義さんが、この紀州家「石橋」のアイである。
『狂言師』で敵役となる小鼓打ちの太秦小左衛門という人物であるが、平岩先生の別の短編『猩々乱』(『ちっちゃなかみさん』所収)に、宮増小左衛門という同じファーストネームを持つ、やはり硬骨の鼓打ちが出てくるので、たぶん作者の創造した架空の人物だと思われるが、内容的にはモデルとなるような事件はあったのに違いない。芸の上での命のやり取りというのは、「富士太鼓」などにも描かれているように、もっと古い時代からあるのだろうから。
で、肝心の、間狂言の出で早鼓が打たれるのかどうかという問題であるが、昨夜のテレビ画面にアイの仙人が写ったときは、小鼓も大鼓も下に置かれていて、囃子は何もなかった。もっともテレビ放映は省略される部分があるので、登場の一番最初には鼓が鳴っていたのかもしれない。
ちなみに青翔会では、半能で間狂言はなかったけれど、小鼓は女性鼓師の岡本はる奈さんだった。
若い狂言師の芸を認めつつ、いや認めるが故に、あえて死に追いやった太秦小左衛門。拝領の鼓を断ち割り「鼓師の意気地、狂言師の意気地、いづれもよき能作らんが為のもの也」という書状を残していずこともなく立ち去ったとあるが、芸のために命を散らすのは悔いない世界とはいえ、この爺さんに共感するのは難しい。今じゃ女が能舞台にも立つし鼓も打つんですよ、と言ってやったらどんな顔をするだろうと思えてしかたない。
この小説の末尾に、作者覚え書のような形で、正徳六年に紀州家で「石橋」の上演があり、その時から「番手替り」間狂言の出は早鼓ありと早鼓なしが交替で行われるようになったとある。
もともと、この「石橋」は、紀州家初代徳川頼宜のお抱え能役者の伝承による紀州家独自の演出があり、選ばれた者のみに相伝されたという。明治になって大名家が消滅したあと、その上演も絶えてしまったが、このたび和歌山市と野上記念法政大学能楽研究所が協力して、紀州家独特の演出法で復曲させた。
通常の紅白牡丹の他に、紅白混じり(赤白に加えてロゼ?)の牡丹が白牡丹の並びに置かれ、合計三本の牡丹でより華やかな舞台装置に、また大きなよだれかけのような「胸掛」を獅子が掛けて登場する。この胸掛のデザイン、首の後ろに廻す部分まで含めた総長が一尺七寸五分、正面から見える部分の長さが一尺三寸とか、ちゃんと設計図(?)も残っておりそのとおりに制作したという。
紀州頼宜といえば、「南海の龍」と言われ戦国武将の気風を忘れず、後には由比正雪の乱の黒幕と疑われたこともあった殿様。いかにも南龍公にふさわしい、華やかで豪放なお能である。
