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◆おたま姐さん、最近、世田谷一周ウォークで忙しいんですってね。なかなか顔見せてくれないから、こっちから遊びに来ましたよ~
◇だけど、おたま姐さんは深川育ち、亡くなった旦那さんは丹波の出のお人だったそうなのに、なんで世田谷なの?
おたま:そりゃぁねぇ、亭主と知り合うもっと前にさ、むにゅむにゅ・・・そんなこたどうだっていいんで、あんた達も参加しなさいよ世田谷一周ウォーク。これまでの記録はこちらですよ。
http://www.fujinsha.co.jp/2017/11/21/seta-walk1-report/
http://www.fujinsha.co.jp/2017/12/05/seta-walk2-report/
◆◇え~~お花見の頃とか、景色のいい所をぶらぶらお散歩するならいいけど、この寒空の下で十数キロも、ひたすら区境を行軍するなんて、遠慮しときますわ。
おたま:しょうがないねぇ。それはそうと、世田谷には「沢」のつく地名がいろいろあるよね。「世田谷七沢」って言われているんだよ。
◆そうそう、多いよね! 七つどころじゃないんじゃないの? まずは本多劇場はじめ、演劇やアートの街、下北沢の北沢でしょう。北沢タウンホールもあるよね。
おたま:さすが~~早速正解です! JRが走らない世田谷区内では、南部は東急、北部は小田急・京王線と、私鉄が重要な役割を果たしているんだけど、下北沢は小田急と京王井の頭線の乗り換え駅。小田急下北沢駅は最近、地下に入ってしまったけど、井の頭線の下北沢駅のほうはまだ昔ながらのホームが使われているよ。
◆オリンピック公園の駒沢も沢がつく!
おたま:うん。でもね、駒沢というのは明治になってからの新しい名前で、昔は馬引沢っていったんだ。今の上馬・下馬も、馬引沢だったの。馬「牽」沢と書いてある史料もあるよ。なぜ馬引沢という名前がついたかというと、源頼朝が奥州征伐に向った時、乗っていた馬がここで沢に落ちて死んでしまったので、「今後このような沢地を行く時は、馬に乗らず馬を引いて行け」という命令を出したからなんだって。この死んだ馬のために建てた「葦毛塚」の碑が、今も下馬五丁目の世田谷区と目黒区の境の所にあって、次回のウォークで通る予定だよ。
◇そうだったのか~。そういや、「沢」も多いけど、「野毛」だとか馬関係の名前も多いよね。
おたま:東隣の目黒区も、東大教養学部のある「駒場」があるしね。このあたりは源平時代から、軍馬の往来が激しかったし、明治時代にも陸軍の騎兵隊の演習地で、マンション街の一角に秋山好古の名前のある碑が建っている「騎兵山」の跡があるんだよ。
◆北沢に馬引沢、三つめは・・・あっ、うちのイトコが世田谷区に住んでて子供が松沢小学校というのに通ってるっていってた。創立130年にもなる古い学校だっていうから、「松沢」も七沢の一つでしょ?
おたま:惜しい! 松沢というのはね、確かに古い名前なんだけど、やっぱり明治以降なんだ。明治になって、それまで細かい村々に分かれていた郊外が再編成された時、北沢・赤堤・松原の三つの村が合併して、松原の「松」と北沢の「沢」とで「松沢」になったの。赤堤は位置が真ん中なので、名前が残らない代わりに、村役場や学校が置かれた。だから今でも松沢小学校は住所は赤堤なのに名前は松沢というわけ。
◇そっか~。じゃ、もしかして「代沢」も、「代田」と「北沢」なのかな?
おたま:ピンポーン! その通りです。
◆うーん、あとはどこかな~
おたま:南のほう、多摩川に近いほうを見てごらん。
◇もう地図を見ちゃおう。あっ、あったよ! 奥沢に深沢。
◆奥沢って九品仏のあるところだよね。
おたま:そう、九品仏で知られる浄真寺は、四代将軍家綱の時に開基されたのだけど、もともとは奥沢城という城があった所で、今も境内に土塁の跡が見られる。奥沢城は世田谷城の出城で、世田谷城と同様、後北条氏と姻戚関係を結んていた吉良氏の支配下だった。
◇奥沢は奥のほうにある沢だから? 深沢は、深い沢があったのかな~
おたま:う~んどうだろう。深沢は、都立園芸高校のあるところで、明治41年に出来たこの園芸高校は、都市近郊型の農業の開発に大きな力となったんだよ。
◆えーと、あとは・・・あっ、「野沢」もあるよ。
おたま:ネット検索とかすると、野沢も七沢の一つにする説もあるんだけど、厳密には「野沢」は沢があったからじゃなくて、別の理由からついたものらしいんだ。江戸に幕府が出来てからも、このあたりは田畑のない未開拓地だったんだけど、17世紀半ば頃から多摩川河口の六郷領沢田という所から開拓者が来て次第に開かれ、沢田新田といわれるようになった。また葛飾の野村治郎右衛門という人も開拓に尽力した。というわけで、沢田の「沢」と野村の「野」で、「野沢」になったという。
◇そうなのかぁ~、でも他に「沢」のつく所は見つからないけど・・・
おたま:たぶん、これ以上は、世田谷区民でもわからない人が多いと思うんだけど、今はもう残っていない地名で、「池沢」村と「廻沢(めぐりさわ)」村というのがあったんだよ。池沢という地名は今は残ってないけど、このあたりの目黒川沿いの低地にかなり大きな池があり池沢と呼ばれていたらしい。池の端と思われる「池尻」の名は今もあるし、井の頭線の下北沢の次の駅が「池ノ上」だからね。
◆廻沢って、読み方は難しいけど、いい名前じゃない? なくなってしまったのは惜しいよね。
おたま:そうだよね。芦花公園のあたりだけど、地元の人も無くすのは惜しいと思ったんだろうね、バス停や通りの名前、歩道橋の名前などには残っているみたいよ。
◇えーと、北沢・馬引沢・深沢・奥沢・池沢・廻沢・・・まだ六つだけど、もう一つあるの?
おたま:実はですね。北沢が、上北沢・下北沢と二つありまして、それで七つなのです。
◆◇え~!?
おたま:区制50周年を記念して世田谷区が刊行した「世田谷、町村のおいたち」という資料にこう書いてある。
「世田谷は丘と谷が交互する土地ですが、この谷のいくつかには、ところによって小さな沼沢地――あるいはそれに近い低湿地――がありました。田にできるところは田にし、それが不可能ならば葦の生い茂るにまかせていたものです。このような土地を”沢”と呼んだようで、これが地名に使われています」
「七沢というのは馬引沢、池沢、深沢、奥沢、廻沢、上北沢、そして下北沢です。」
◇地図を見ると、上北沢と下北沢って、けっこう離れてるし、それぞれ独立してるっぽいよね。なんで同じ北沢がついたんだろう。
おたま:それは北沢用水という、玉川上水から分水して作った農業用水の、上流部分が上北沢、下流部分が下北沢なんだ。今はもう水の流れはなくて緑道になっているけど、このあたりの農地にとってとても重要な用水だったわけ。地図を見ると、上北沢のあたりの、杉並区との区境がとても変わった形をしてるでしょう。区境の北側は、甲州街道の高井戸宿だったわけだけど、上高井戸と下高井戸の間をぐさっと上北沢が上に伸びて突き抜けている感じ。これも上北沢の村の人たちが用水を開発した周辺が、流れに沿った形で村の区画になったからなんだよね。
◇◆なるほど~、土地の名前を探っていくと、その土地の歴史がいろいろわかるんですね~
おたま:世田谷区に限らず、地域の図書館には必ず、その土地の歴史に関する資料が揃えられているので、寄ってみると、「長く住んでいたのに、全然知らなかった!」という発見がありますよ!PR
おたま姐さん、久しぶりのご登場、嬉しいです。
みんなで、わいわいがやがや、語り合っていた頃が懐かしいですね・・
世田谷一周ウォーキングも順調に進んでいるようで、何よりです。
それにしても、本当に健脚な参加の皆様の元気ぶりにも脱帽です。
「沢」が付く地名が七つあるってすごいですね・・自分の所も「沢」が
付いてますが(爆)、町名とかには余り聞かないかもです。
図書館には、地元の郷土史とか、色々置いてあるから、今度
見てみようかしら・・まだまだ知らない事ばかりだわ・・
この時期、姐さんのお江戸との天候の格差(違い)が大きくなり、
時雨模様の毎日です。気温が低くても晴天続きが羨ましいなぁ
すみれ 2017/12/07 (Thu.) 18:09 edit