忍者ブログ

[72]  [71]  [70]  [68]  [67]  [66]  [64]  [63]  [62]  [60]  [65
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

[PR]
日本ではほとんど知られていないが、今日2月21日は「国際母語の日」である。
新聞を見ても、金子兜太氏死去のニュースと、あとは冬季オリンピックばかりで、今日がこの記念日であることに触れた記事は見つからなかった。

もともとはバングラデシュの祝日(その謂れは ↓ 参照)であるが、日本にも、池袋西口にこのレプリカがある。

http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_2.html

池袋は、そう度々行くところではないが、いつ行ってもこれに目を留めたり説明版を読んだりする人を見たことがない。いつもおおぜいの人が周囲にいるのだが、全くこの記念碑には気がつかずに煙草をふかしたり飲食していたり、自転車もゴチャゴチャに駐めてあって、せっかく設置されているのに写真をとろうと思ってもなかなかとれないような記念碑だ。

このような無関心こそ、母国語として日本語を持つ日本人が、いかに世界の中で恵まれた存在であるか、ということを如実にあらわしているのだと思う。
日本人が意識する言語問題といえば英語教育に関することばかりで、小学校から英語を始めるべきか否か、学校の英語教育が間違っているからいくらやっても英語が話せるようにならない、英語コンプレックスをどうやって乗り越えるか、そんな話ばかりだ。

「日本人は水と安全はタダだと思っている」と言った人がいたそうだが、日本人は「水と安全と母国語を維持するために、苦労が要るとは考えたことが無い」ということだろうか。
自分達の外国語習得には敏感だが、海外で日本語学習のニーズが広がっていることには鈍い。
学習塾で中高生に英語を教えれば、そこそこのアルバイト収入になるのに、海外からの留学生に日本語を教える仕事は、ほとんどボランティアに近い状態だという。
地球上に日本語や日本文化への理解を広めていくことは、防衛費に予算をつぎ込むよりも、長い目で見ればずっと日本の安全保障に役立つと思われるのに。

バングラデシュが舞台の物語というのは、図書館で探してもなかなか無いが、ようやく『リキシャ・ガール』という児童書が見つかった。作者はミタリ・パーキンスという、インド生まれで現在は米国在住の女性作家。彼女の父はバングラデシュで少年時代を過ごし、彼女自身もアジア・アフリカを始め世界中いろいろな所で生活した経験を持つところから、異文化への架け橋となる児童書を書き続けているという貴重な作家である。

この『リキシャ・ガール』の中に、ベンガル語の美しさを国中で祝う「国際母語の日」の様子が描かれている。
世界でも最貧の国という印象の強いバングラデシュであるが、人々はアートを深く愛し、貧しい中でもサリーや装身具・刺繍・「アルポナ」というデザイン画(?)など特に女性たちの手によって素晴らしい作品が生み出され、音楽やダンスを楽しむ生活がある。
女性たちは貧しさと男女差別という、二重の苦しみの中にいるが、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の小口融資システムのおかげで、起業して経済力を身につける女性も少しずつ増えていく。このあたりは、日本の朝ドラとも共通する感じだ。


 ミタリ・パーキンスと同様、ベンガル系の両親を持ち、欧米人と結婚して欧米で作家生活を送る女流作家といえば、ジュンパ・ラヒリがよく知られている(インド系には彫の深い美男美女が多いが、作者写真を見るとこの人も大変な美女である)。邦訳作品も数多く、日本のファンによるアマゾンレビューや読書ブログなどもたくさんあるようだ。

長年欧米に住んでもアイデンティティは完全にインド(ベンガル)である親世代と、英語で教育を受け英語で仕事をする子供世代の葛藤という、ラヒリ作品によく見られるテーマは、日本人の、地方で家を守る親と都会に出た子供という関係にも共通のものがあり、理解や共感を持ちやすい。しかし、ベンガル語対英語という問題は、方言や訛りだけの違いの日本に比べてはるかに大きなものだ。

ラヒリは英語で発表した多くの作品で非常に高い評価を受けているにもかかわらず、自分にとって「ベンガル語は母、英語は継母」だと書いている。そして自分には本当の祖国、本当の母国語が無いという思いにとらわれている。
普通ならここで、実母であるベンガル語に回帰し、インドやアジアについて、より深く関わっていこう、となると思うのだが、彼女の独創的な、というか特異な所は、イタリア語という第三の新しい言語への挑戦なのである。もちろん大変な苦労ではあるが、ラヒリは「二つの母語から離れた自由」を味わいながら、ローマに移住しイタリア語でエッセイや小説を書き始める。この経緯が書かれているのが『べつの言葉で』という2015年に出版された本である(原書は2014年)。

「完全な母国語である日本語」で出来上った脳で「完全な外国語である英語」の学習に苦労してきた身としては、はっきりいって、そこまでラヒリを突き動かす思いというのがよくわからない。しかし、言語というものは人間そのものなのであり、言葉は単に人間が「使う」ものでなく、人間は「言葉で出来ている」ということなのかなぁと思う。
PR
国際母語の日

Comments

名前
メールアドレス
URL
コメント
PASS