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1月第三月曜日は、米国の公民権運動指導者で凶弾に倒れたキング牧師の記念日。今年はちょうど彼の誕生日15日にあたっている。
だからという訳ではなく、たまたまなのだが、昨年の正月読書に「読んでみたい」と書いてから一年もたってしまった、『アラバマ物語』の続編『さあ、見張りを立てよ』をようやく読んだ。

まず最初の衝撃は、『アラバマ』のヒロイン&語り手であったスカウトの、兄のジェムが若くして心臓病のため突然死しており、『見張り』には回想でしか登場しないこと。これは作者自身の兄のことが反映されているようだ。
代わりに、『アラバマ』では存在感の薄かったアティカスの弟、医者のジャック叔父さんが重要シーンで登場するのは嬉しいが、ジェムの不在は『アラバマ』ファンにとってはあまりにも大きすぎる。

大問題となっていた「
アティカスの変節」問題だが、私の読んだ限りでは「変節」とはいえないだろうと感じた。アティカスがKKKや人種差別主義者と同じ行動をとっているわけではなく、地元の付合いとして彼らと同席しているだけだからだ。

考えてみれば、『アラバマ』でも、アティカスは一南部人として普通に社会生活を送っていたのであり、彼が
完全に白人優位思想から脱しているという記述はなかったのだった。
しかし、妻を早く亡くしたシングルファーザーとしてのアティカスが、教育についてはかなり自由な思想を持ち、子供も一人の人格として尊重していたこと、また何よりも、メインストーリーである黒人青年の冤罪を晴らす弁護活動を貫いたことの印象から、読者は彼が黒人公民権活動の活動家でもあるような錯覚に陥ってしまったのだ。

『アラバマ』はこのメインストーリーが感動的で、さらにそれが子供たちの視点から描かれているため非常に読みやすかった。『見張り』はそれに比べるとかなり読みづらい。成長してニューヨークでキャリアウーマン生活を送るスカウト(これも作者の実体験らしい)が、故郷メイコームに帰省して起こるいろいろな出来事と、過去の思い出が交互に出てくるのもややこしいし、子供時代は魅力の一つだった、スカウトのややエキセントリックな性格も、大人として見ると、ちょっと「引いて」しまう感じがある。とくに日本人読者にとっては・・・

ところが、もともと作者が本当に書きたかったのは『見張り』のほうだった、いや先に書かれていたのは『見張り』のほうで、それが編集者による助言の結果、大幅に改変されて『アラバマ』になったと言われている。詳細は不明だが、そうだとすると大変うなずけるのである。
さらに映画化によって、理想的ヒーローとしてのアティカス・フィンチ像が完成されてしまった。 あまりにもハマり過ぎたグレゴリー・ペックは、ある意味、罪造りだったかもしれない。

暮しの手帖社が翻訳出版した『アラバマ物語』を読んだ人は必ず覚えていると思うが、巻頭に作者ハーパー・リーとG・ペックのツーショット写真が載っている。
この写真で印象に残るのは、作者が何だか、とまどったような固い表情をしていることで、自然体で超格好よく写っているペックと対照的。それは単に、田舎で静かな生活を送っていた女性が急にスポットライトを浴びた緊張感のせいだろうと、ずっとこれまで思ってきた。
今、続編(というか実際には元祖作品?)の『見張り』を読んでみて、この作者の表情が腑に落ちた気がする。

G・ペックは数々の栄誉を受け、15年前に世を去った。晩年には度々大統領選への出馬も乞われていたという。この映画がなかったら、ちょっとだけ栄光が地味になっていたかもしれないがそれでも充分に一流の映画人としての生涯を送ったに違いない。
しかし小説については、作者のデビュー作が『アラバマ』ではなく、当初の構想どおり『見張り』のほうで出版されていたら、それは一南部女性作家のデビュー作として、映像化なども無縁な知る人ぞ知る存在、もし邦訳されたとしてもごく限られた読者にとどまっていただろう。
その代わり、作者はスカウトとアティカスの物語をその後も書き続けたに違いない。
初の黒人大統領が米国に出現した時、アティカスはすでにこの世の人ではなかったかもしれないが、スカウトは、メイコームの人々は、それをどう受け止めたか。私たちはそれを知るよし無く、代わりにベストセラーで「米国の良心」を代表する名作『アラバマ物語』の本とDVDを手にしている。

要するに作者が書きたかったのは、自分でもはっきりと整理することのできない、混沌とした思いだったのではないか。故郷の風物人々への深い愛と、決して抜け出すことの出来ない因習に対するいらだち。実母を早く亡した自分を「一人前の南部のレディ」に育てようとする叔母の俗物性に対する許し難い思いの一方で、叔母の家事や社交のスキルに自分は遠く及ばず、故郷で年老いていく父の世話も叔母に任せきりにしなければならない状況。自分は心を許して友人付合いをしているつもりなのに、黒人たちからは最終的に一線を引かれてしまうもどかしさ、等など・・・


そうした思いに揺れ動くスカウトから見ると、父アティカスの態度は偽善的に見えてしまう。アティカスの中には白人優位思想も残っており、急速な平等化は黒人自身のためにもならないという考え方だ。また南部人としての誇りも高く、連邦政府の介入は許しがたいという気持ちを隣人たちと強く共有している。
つまりアティカスの英雄的な冤罪弁護活動は、人種平等主義から出たものではなく、白人優位社会であろうと、冤罪は白人でも黒人でも許せないという、リアリストで誠実な司法人の姿勢だったのだ。あの弁護活動は、もともとの作者の大河のような構想の中での、一つのエピソードにすぎなかったのではないだろうか。


偽善者とは暮らせないという娘に向ってアティカスは言う。
「偽善者だって、この世界で生きていく権利はあるんだよ」

ラストの父娘の論争ははっきりいって読んでもなかなかわかりづらいが、最終的に父親への愛情を再認識したところで終っていることは安心できる。

タイトルの「見張り」とは、「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ」という聖書イザヤ書21章6節の主の言葉から採られたものだそうだ。
作中、スカウトの思いが綴られている。「自分を導いてくれる見張りが欲しい。そして、何を見たか一時間ごとに報告してもらいたい。ある人が何か言っても、実際に彼が言いたいのはこういうことだと説明してくれる見張りが欲しい。真ん中に線を引いて、こちらはこういう正義、あちらはああいう正義だと言い、違いを私にわからせてくれる人。」

子供時代のスカウトの「見張り」はアティカスだったのだろう。全幅の信頼を寄せることの出来る父の存在を当然として育った娘が、大人になって、親子でもわかり合えない部分があると気づくのは自然の成り行きである。そう思って読むと、この物語は黒人白人、米国北部南部というテーマを越えて、古今東西共通の、子の成長とその親の物語であるのかもしれない。 

G・ペックも含め、『アラバマ物語』関係者はほとんど故人となってしまった。
3人の子役の中でも、ディルを演じた俳優はエイズで死去しているという。
ジェム役の子は10年ほど映画やテレビに出演したのち、芸能界を去ってビジネスマンとして活躍しているそうだ。

スカウトを演じたメアリ・バダムだけが今も女優として活躍中で、『見張り』の出版についても思いを語ったりしているのは嬉しいことだ。
そして、隣人ブー・ラッドリーを演じたロバート・デュヴァルが、今なお80代で活躍しているのはとても頼もしい。

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正月読書日記 2018

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