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朝刊を見たら、悲しいニュースが目に飛び込んできた。
杉本苑子さんが5月31日に亡くなられたという。
最近しばらく新作の発表がなく、さすがにお歳で現役は引退されたのかなと思っていたが・・・享年91歳は、しかたがないとはいえ、やはり寂しい。
学生時代、歴史の時間=睡眠の時間であった私は、社会人になってから、杉本さんと永井路子さんの本で日本史の知識のほとんどを得たようなものだ。

奈良時代を描いた大河小説『穢土荘厳』、奈良から平安へ嵯峨天皇の后として激動の時代を生きた橘嘉智子の生涯『檀林皇后私譜』、徳川秀忠・江の娘で京都朝廷に嫁し女帝明正天皇の母となった東福門院和子『月宮の人』などについては、ブログ前身のHPの読書日記でも少し触れている。

http://sfurrow.warabimochi.net/gensan/gb_books/history03.html

杉本さんのデビュー作はというと、1951年に『申楽新記』、1952年に『燐の譜』という作品が書かれており、いずれもサンデー毎日の賞に入選している。
この2編は、図書館やアマゾンで検索してみてもわからないのだが、『申楽新記』は、その後『華の碑文―世阿弥元清』として代表作の一つになったそうだ。『華の碑文』なら、瀬戸内寂聴さんの『秘花』そして我らが平岩弓枝先生の『獅子の座』と3冊まとめて本棚に並べてあり、それぞれの作品に登場する世阿弥を比べてみたいと思っているが、いつになるやら・・・
『燐の譜』のほうも、後に何かの作品に発展したのかと思い調べてみたが、よくわからない。ようやく検索の結果、富山県のある高校のOB会ブログで詳しい解説があるのを見つけた。非常に興味深い内容だ。

http://www.ofours.com/higashi5/2014/1110_070000.html

なぜ富山県かというと、『燐の譜』の主人公が、「越中氷見村朝日山の観音堂」に住んでいた面打ちの僧侶、氷見宗忠という人物である故。つまり2編のデビュー作はいずれもお能関係だったわけで、杉本さんの若い頃からの能楽への造詣を示している。
そういえば『能の女たち』という新書も持っていたはずと引っ張り出してみると、ありましたありました! 十一章「『藤戸』の母―権力を屈伏させた底辺の力」の中で触れられている。能「藤戸」の後ジテがつける「痩男」の面を打った氷見宗忠という僧侶の逸話で、納得のいく面が打てず、墓から死人を掘り出しその顔貌を見つめてようやく面を完成させたという話(岡本綺堂の『修善寺物語』などと共通の感じ?)。
杉本さんは戦前・戦中に活躍した面打ち作家入江美法氏の『能面検討』という著作でこの痩男面について知り、「戦後しばらくして、私は氷見宗忠を主人公にした『燐の譜』という短編を書き、図々しくも毎日新聞社の懸賞小説に応募。まぐれ当りの入選をはたした」と書いておられる。

この『能の女たち』は、わかりやすくかつ奥の深い、お能初心者必携の本である。



古代の女帝やお能以外でも、杉本さんの守備範囲はたいへん広い。

(追記:6月4日)

今朝の朝日新聞「天声人語」が杉本さん逝去を取り上げている。紹介されている作品は『孤愁の岸』と『春風秋雨』。『春風秋雨』は随想集で(最近はほとんど「エッセイ集」と言うようだけれど、「随想集」っていうのはいいよなぁ)、「葬式も墓も無用、骨は海に撒いてほしい」という言葉が紹介されている。最近では作家に限らず、墓を建てず散骨してほしいという人は多いけれど、杉本さんの場合は、墓の代りということだろうか、「使い古した広辞苑を一冊だけ埋めてほしい」という言葉も載っているそうだ。

『孤愁の岸』は直木賞作品なので、やはりこれが杉本さんの代表作ということになるのだろうか。「宝暦治水」の話ですよね。
私はこれの十年後に書かれた『玉川兄弟・江戸上水ものがたり』のほうは大分前に読んだ。都民としてはやっぱり毎日お世話になっているこの地の水道の設立についてちょっとは知っておかなければならないし、玉川上水は、近場でも少し遠出したい時にも、便利なお散歩コースだから。
しかし『孤愁の岸』のほうは読んでいない。『翔ぶが如く』もそうだけど、「薩摩の話ねえ・・・ま、時間あったら読もっか」みたいな感じになっちゃうのです(^^;
ところが、東海道を歩いていたら、思いがけない形でこの宝暦治水・孤愁の岸に出会った。
桑名の、旧東海道から少し美濃街道のほうに入ったあたりに海蔵寺というお寺があり、そこが宝暦治水に関わった薩摩藩士たちの墓所があるのだ。っていうか、この寺が大々的にそれを売りにしているわけだ。(右の写真でわかるとおり、祭壇の前に『孤愁の岸』が積み上げられ販売されている)
 


確かに、身を削って治水事業に貢献したにもかかわらず、多くの犠牲者と巨額の経費の責任をとって自害に追い込まれた平田靱負ほか薩摩藩士たちの苦悩と無念さは、思っても余りある。しかし、丸に十字の薩摩ロゴが境内いたる所にはためいているのはともかく、「薩摩義士」っていうのはどうなんだ。忠臣蔵か?!なんて思ってしまうのは、4分の1長州人の僻みですかねぇ。玉川上水の開削だって大変な苦労があったわけだし、伊奈半十郎だってそれで切腹している。。。とずっと思っていたのですが、最近調べてみたら、これは杉本さんのフィクションで、実際には伊奈半十郎は自害してはいなかったんだそうですね(@_@)

まぁ、木曽川・揖斐川・長良川という大きな三つの川の水難に悩まされていた当地の人々にしてみれば、はるばる九州の地からやってきて、さんざん苦労してくれたのに報われなかった薩摩藩士たちを「義士」と奉る気持ちもわからなくはない。保身と都合の悪いことはすべて隠蔽で動く国家権力のもとで、現地のリーダーが血のにじむ苦労を強いられるという構図は、先年の震災を始め、今でもあちこちで見られる事態なのである。

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追悼:杉本苑子さん

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