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原作の読み返しと録画視聴がすっかり遅くなってしまったが、なんとか2月中に出来てよかった。来月からはいろいろと、アウトドア計画やお疲れ様会・年度末雑用などが待っているので…

原作は1989年、ちょうど昭和から平成の年に出版されたが、雑誌連載は85年から。日本の男性たちが、リタイア後の生活をいかに過ごすべきかという未曽有の問題に直面した時代である。

現在リタイア生活真っ只中の団塊世代は、それなりに現役時代から心の準備も出来ており、ブログやフェイスブックという新しいツールも手にしていて(乗り遅れている面々は年賀状とかでも)、我がリタイア生活を同期生たちにさりげなくアピールする術も身につけている。もっともやりすぎると、クサイとかイタイとか顰蹙も買うのであるが(^^;

それに比べると30年前にリタイアを迎えた一世代前の男性たちは、生活のためにひたすら働き、現役中に癌や交通事故や過労で倒れることには敏感に備えてきたものの、そういった不幸に合わず無事に定年を迎えた後、何らかの問題があろうとは予想もしなかったのだった。気づいてみれば日本人の長寿は毎年更新され、安らかに天に召されるまでの人生がまだまだ目の前に続いているのに、何をしたらよいかわからない、という事が新しい社会問題になった。城山三郎の『毎日が日曜日』が大きな共感を呼び、女性陣からは「濡れ落ち葉」などと容赦ない言葉も投げつけられる。

そうした中で、『三屋清左衛門残日録』は、充実した老後の過ごし方を模索してきた男性たちにとって最適のモデルとなった。現代そのままで書けばあまりに理想的すぎる展開も、時代小説であるために成功したといえよう。
清左衛門のリタイア生活――読書・学習に散歩、渓流釣り、道場で子供たちにボランティア指導――これだけでも、インドア・アウトドアに渡り理想的だと思われるが、さらにはお家の跡継ぎを巡る派閥争いについても、水面下で調整役を期待される。現役を退いたと見えて、その見識とコミュニケーション力が密かに現役に影響力を与えている。読者のリタイア男性たちが最もあこがれを覚えたのも、この部分ではないだろうか。

ドラマ化は今回の北大路欣也主演のが初ではなく、1993年にNHKで仲代達矢主演で映像化されている。私は、原作は出版されて間もなく読んだけれど、このドラマは見逃していた。原作はそれなりに面白く読んだのだが、映像化を録画してまで見ようという思い入れは無かった。何より老後の過ごし方というのは、自分にとってまだまだ先のことだった。
今思うと、仲代達矢の清左衛門も見てみたかったと思うのだが、実はこのNHKドラマは、藤沢周平全集の解説では、中野孝次氏によって一刀両断、というか殆ど罵詈雑言を浴びせられている(^○^)
「仲代の演ずる清左衛門はいいのに、嫁の里江がへんに色っぽすぎ、涌井のおかみもダメで、あとは見る気が起きなかった」
まぁこのドラマ自体がどうこうというよりも、中野氏は一昔前の文化人にありがちな、テレビというメディアそのものにアレルギーを持った方だったようで、「テレビというのは実に下品で劣等なメディア」「テレビマンの触れるところ物みな下品になる」等など、もう言いたい放題。
実を言うと私も、「活字>漫画」「舞台>映像」という確固たる価値観から抜け出せずにいて、本と舞台(演劇)は同等だけれども、漫画やテレビはワンランク落ちる(映画は少数の選ばれたものが活字・舞台と同等)と思っているので、中野氏の言を読んだ時は密かに「もっと言ってやれ」と心の中で拍手を送った。もっとも今では、ネットという、下品さから言ったらテレビも裸足で逃げ出すようなメディアが出て来てしまった訳であるが…

それはともかく、今回のBSフジのドラマ化は、民放にも関わらずなかなか良かったと思うのだが、中野氏が存命だったら果たして合格点をつけるだろうか? 2004年に逝去されてしまったのは大変残念だ。
今回は前篇・後篇で脚本家が違っていた(息子役の俳優も違った)のがちょっと気になったが、総じて原作どおりに作られており、お家騒動の主筋(藩主とその弟または叔父との争いという、海坂藩もののお約束)を中心に、原作エピソードの取捨選択も適切で、うまく脚色されていたと思う。配役もハマり過ぎ(笑)で安心して見られた。

とくに前編は、びっくりするくらい原作に忠実で、唯一(?)脚色で膨らませた部分が、村の大地主多田掃部と偶然に清左衛門が釣で会い、その後彼の家を訪ねるという所。この脚色は秀逸で、この人物が後篇には全然出て来なかったのは残念だった。もともと、作者ももう少し活躍させたかった登場人物だったのではないかと思われるし、配役もぴったり(大河ドラマ直虎にも出演中で良い味を出している、アマチュア考古学者にして元石原軍団俳優の苅谷俊介さん。ファンです。)だったので惜しい。

後篇は、若い頃の友人たちと、晩年になってからの境遇の違いが主要なテーマとなり、同じ作者の『風の果て』を思い出させて面白かった。
実は私は、『残日録』の前年に出たこの『風の果て』のほうが、原作・映像ともに好みである。ドラマ化はNHKで2007年、昨年再放送もされたが、主人公が清左衛門のように悟りすましてはいない、もっとアクの強い男である所がリアリティがあった。
また、『残日録』の大塚平八(笹野高史)と金井奥之助(寺田農)の対比も面白いが、『風の果て』に登場する、出世した主人公とはすっかり身分の開いた貧しい下級武士ではあるが、幸福に生きていて、主人公とも対等に接する、救いのある人物がいないのがちょっと物足りない。たぶん読者の大部分はこの男性に自分を重ねて読むのではないかと思うが、『残日録』は清左衛門の一人勝ちみたいなところがあって、金井奥之助ではないが、「どうしてあいつばかりが何事もうまく行って、かっこよく生きられるんだ!」という気がしてくるのも否めない。

原作では「行間を読んで感じる」部分を、映像化ではどうしても具体的に説明せざるをえない、というのがドラマ化の苦労するところだろう。全く小説どおりにしてしまっては薄味すぎる、あるいは原作を読んでない人にはわからない、しかし原作を読んでいる人には余計に感じられる…難しいところである。
今回でいえば、後篇の、金井奥之助の葬送シーンでの清左衛門と金井の息子とのやり取りあたりであろうか。やや「しゃべり過ぎ」かとも思われたが、全体的に見て、納得できる補足だったように思う。

逆に小説どおりにやられてちょっと白けたのが、ラストの居酒屋の女将との抱擁シーンで、せめて遠景とかにしてほしかったような。私が脚本家だったら、この女将は原作と違い、もう少ししたたかな女で、元用人の威光を利用して自分の幸せをゲットするような形にしたいかもしれない。

藤沢周平の小説の経緯としては、初期の、クオリティは高いけれども「暗い」短編群から、中期の、波瀾万丈で面白い長編や連作と、同時期に並行して書かれた実在人物が主人公のきっちりした歴史小説。そして後期の、あっさり薄味ながら味わい深いと評されるもの。
『三屋清左衛門残日録』は、この晩年の代表作品であろう。
長らく中期の作品(といってもちゃんとした歴史小説のほうは未読多)を中心に読んできたが、そろそろ、後期作品がお友達になりそうだ。



 

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『三屋清左衛門残日録』  藤沢周平
七拾七年会とは、1977年生まれ6人の各分野の能楽師・狂言師が「全く初めて能を見る人でも楽しめる能を企画しさらなる愛好者を増やす」をコンセプトに平成20年に旗揚げした会で、私には初めての会だが、今回がちょうど十回目になるという。
 
メンバーがちょうど30歳を迎えた時に若手の会として始まったが、これからは若手から中堅へとなっていく節目という事で、今回はメンバー中囃子方の3人(観世流太鼓方:小寺真佐人、幸流小鼓方:住駒充彦、葛野流大鼓方:原岡一之)それぞれの一調から始まる「より緊張感の高い」公演としたそうである。

素謡・仕舞・舞囃子・一調など、いろいろなパターンがあるのは知っていたが、一調は「わりとシンプルなやつ」くらいの認識しかなかった初心者(恥)であるが、一調とは「囃子一人、謡一人の真剣勝負」なのだそうだ(へ~え、だから緊張感なのか)。そして「通常の謡を囃す囃子と違い、一調では囃子が主役で謡は囃子を盛り上げる役割」なのだそうだ(へ~え~え)。
このように初心者向けの詳しい解説もあるのが有難い七拾七会であった。

一調「屋島」  武田文志 原岡一之
 
一調「西行桜」 武田宗和 小寺真佐人 

一調「女郎花」 味方玄  住駒充彦

狂言「惣八」 山本則重(出家) 山本則孝(有徳人) 山本則秀(惣八)
 
能「海士」 シテ:武田宗典(海人/龍女) 子方:武田章志(房前大臣)
      ワキ:森常好(従者)     アイ:山本則重(浦人)
 
今回は「懐中の舞」で、玉の段・最後の早舞ともに橋掛まで来る演出、シテが長身であることもあって、スケールの大きな感じだった。
「海士」は昨年9月のユネスコ能で、宝生の上演に加えて各流がそれぞれの「玉の段」を競うというのがあって、さすがに「玉の段」だけはおなじみになったが、他の部分はまだまだボヤっと見ているだけで全然わかってない。
子方房前大臣は、ユネスコ能では和久凛太郎くん(シテが荘太郎氏の父子共演)、今回はもちろん武田章志くん、小学生というのに堂々たる舞台ぶり。
後シテの龍女の衣装は『演目別に見る能装束』だと、「紫地菊蝶舞衣・緋大口」という非常に華やかな色合いだが、今回のはサーモンピンクの上着で模様も菊蝶よりもう少しシンプルなものに見えた。袴はレモン色?同じ観世でも武田家はまた違うのね。上着の色とデザインは、ユネスコ能の宝生流の時のと同じみたいに見えたが。袴は宝生流のはもう少しオレンジがかっていたような。

1977年生まれといえば団塊ジュニア世代で、「同い年が多い世代であるという幸運を生かして」結成された会でもあるという。ライバルが多い厳しさの反面、このように協力し合い新しい流れを生み出す機会に恵まれた世代といえよう。
能楽界以外でも、歌舞伎の市川海老蔵・演歌の氷川きよし等ビッグネームが77年生まれの仲間だし、とくに早生まれ組はサッカーの中田英寿・SMAPの香取慎吾・ 作家の冲方丁・劇団ひとり・長谷川博己など多士済々である。
たぶん今年が前厄にあたる皆さんではないかと思うが、この公演が厄落としにもなったのではないだろうか。
七拾七年会 第十回記念公演 (国立能楽堂)
昨日の記事に追加しようかと思ったが、大分長くなってしまったので、別項にする。

昨日の大山まちづくりサミットの前に寄った「山口家住宅」の山口氏は、もともと筑前黒田藩の家臣であったともいわれるが、詳しい出自は不明。江戸天和年間に、現在の伊勢原市である相州上粕谷村に定住し、旗本間部家に登用されて勝手御用を勤めることになった。この間部家とは、ドラマ「忠臣蔵の恋」の中で礒貝十郎左衛門様と瓜二つの(@_@)あの間部詮房の分家で、詮房の弟、詮之を祖とする「本所間部家」である。もう一人の弟、詮衡(藤沢周平の『市塵』にチラっと出てくる人)は、「赤坂間部家」を興した。

上粕谷村は本所間部家の所領であったため、山口家はその後、所領の管理を任されることになり、民家であった家は代官屋敷として、武家屋敷風に改装された。しかしその時はもう幕末で明治維新となってしまい、実際に代官屋敷として使われたのは二年ほどで、その後は山口家の個人住宅としてずっと維持されている。
本所の殿様が来られる時に宿泊所となった二階の部屋は、障子・柱・違い棚など、趣向を凝らした細工がいっぱいで素晴らしい。しかしセキュリティ上、外からは二階のあることがわからないように作られて(要するにロフト)おり、さらに殿様宿泊の時には二階に上がる階段を隠す釣り板戸もつけられている。
通常の大山道ウォークは、赤坂御門跡~大山であるが、ここ伊勢原の地元の皆さんは、赤坂を通り越し、本所の御屋敷まで歩くウォークを、定期的に行っているそうである。

明治以降、この山口家住宅は、自由民権運動の拠点という役割も果たした。明治5年に家督を継いだ八代目山口佐七郎が、湘南社という、相州最初で最大の自由民権結社の社長となったためである。もっとも、ガイドの方の説明によれば、武州の自由民権運動に比べると、相州のそれは、裕福な地主層による、運動というより勉強会のようなものだったという。夜、会合に集まった人々がそれぞれ手にして来た提灯をしまう箱が今でも壁にずらりと並んでいる。

山口家の庭は梅林と茶畑になっており、庭続きには雨岳文庫という小さな資料館があって、旗本間部家・大山詣り・地元の農業などに関する史料が保管されている。山口家住宅も、文化財として維持されているだけでなく、味噌づくりなど、地元のコミュニティの場にもなっている。
このような歴史ある住宅を保存していくための、メンテの苦労は並大抵のものではないと思うが、山口家子孫の方々の熱意と周辺地元の皆さんの郷土愛に感動を覚えた。

さて、伊勢原といえば、大山詣りと共に、太田道灌最期の地としても有名である。
まちづくりサミットにも「太田道灌を大河ドラマに」のキャンペーンコーナーが出ていたが、毎年10月に「道灌祭り」が開催され、太田道灌に扮した人気俳優がパレードを行う(昨年は三田村邦彦氏)。
太田道灌資長は、関東管領扇谷上杉氏の家宰で、優れた戦国武将であると共に築城の名人として、江戸城ほか多くの関東の城を築いた。しかしその卓越した才が主の疑惑を招く結果となり、上杉定正の居館で暗殺されてしまう。それがここ、上杉家館のあった上粕谷の地であった。

道灌の墓所を始め、上粕谷のあたりは、道灌ゆかりの山吹が多数植えられていて、春になると一面の金色がまぶしい。

ところで、大河ドラマといえば、北条早雲も小田原市が長年アピールを続けていながら一向に実現の気配がないが、北条早雲と太田道灌は同年の生まれであるという。司馬遼太郎の『箱根の坂』では、この二人の対面場面もある。
この際、伊勢原市と小田原市は手を組んで、早雲と道灌、二人の同時代人の生き方を対比させた大河ドラマの実現に向けてアピールするのはどうだろうか。同じ小田急線沿線なんだし。
大山詣りと太田道灌の里、伊勢原

先月末からずっと、雪国の方々には申し訳ないような冬晴れの日が続いている。久しぶりに百草園を訪れてみることにした。京王線の百草園駅が最寄りだが、園のサイトに、特急も停車する聖蹟桜ヶ丘駅からのウォーキングコースマップが載っているので、それを印刷して持っていく。
駅西口を出ると、川崎街道が京王線に平行して伸びている。このあたり(多摩市関戸)は、鎌倉幕府が関所を置き、その後太平記の時代に、北条幕府軍と新田義貞軍が戦った「関戸の合戦」の舞台であるが、特に古い歴史を感じさせるようなものは無く、バスや車が走る普通の郊外の大通りである。
川崎街道を西へ10分ほど進むと、多摩・八王子地域を環状に走る野猿街道と交差する一の宮交差点へ。このインパクトある街道の名は八王子の野猿峠に由来する。野猿街道の向こうは日野市になる。
マップに従い、交差点を渡って「産直問屋・温(ぬくもり)市」の裏手にある細い道に入ると、様相は一変して、里山の中の住宅地という雰囲気になる。「モグサファーム」というミニ牧場?があり、牛が一頭ランチ中である。牛小屋の壁も牛と同じデザインになっているのが微笑ましい。

     

左手にS字の坂が見えた所でそちらに道を取り、道なりに坂を上っていくと間もなく百草園の正門が見えてくるが、門を入らずに左へ進んで、先に百草八幡宮に参拝する。百草八幡宮は、源頼義・義家親子が奥州征伐の途に武運を祈り建立したのが始まりとか。まぁ関東一円の八幡宮は皆そうなのであるが。

                            

八幡宮の別当寺であった松連寺の碑というのもある。百草園内のお休み処「松連庵」は多分その名にちなんだものだろう。

   

八幡宮から百草園の裏手に入れるようになっており、いろいろと園の歴史などを説明したパネルが並んでいる。八幡宮や松連寺とは別に、平安時代から中世にかけて武蔵の地にあったとして、いろいろな文献に出てくる真慈悲寺という大寺院の遺跡もあるらしく、複雑な由来があるようだ。

      

園内は紅白の梅が咲き始めたところで、ロウバイもまだ盛りである。水仙や福寿草、マンサク、ミツマタなども。

   

芭蕉句碑「志ばらくは花の上なる月夜かな」(左)
右の「芭蕉天神」は、日野市七生村の村長の先祖にあたる土方誠助という篤農家が、学問の大切さを伝えるために祀ったという。土方歳三の親戚筋? 

                      

恒例の梅祭りは明日からなので、売店も閉まっていて静かだ。梅林の中の散策路を登っていくと、雪を戴いた富士山が綺麗に見えたが、残念ながら携帯カメラでは捉えられなかった(-_-)

               

帰りは正面入り口へ続く階段を下りて、百草園通り(松連坂)を百草園駅へ向かう。大変な急坂で、往きにこれを上らず、時間はかかるが聖蹟桜ヶ丘からモグサファームとS字坂経由にして正解であった。坂の上り口のところに、砂土地蔵尊がある。

           

坂を下りると川崎街道で、百草園駅はすぐだが、駅前を少し通り越して、真照寺という真言宗寺院へ向かう。ここに環境省が絶滅植物に指定している「多摩の寒葵」がある。

          

入口の近くに、立札があって数株植えられているが、ひっそりと存在していて探さないとわからない。裏山に自生地があるというが、とくに標識もない。墓地の間を抜けて裏山を一周してみる。

     

途中に「晴れた日にはスカイツリーが見えます」という札が立っていて、眼をこらすがよくわからない。自生しているという寒葵もなかなか見つからない。竹の根元と、他の灌木に隠れるようにしてようやく、境内に植えられていたのと似たものが見つかったが、葉の形(もう少しとんがっている)や、色(境内のは黄緑がかっていたが、こちらは深緑である)など微妙に違うので、別種の葵かもしれない。

そういえば徳川御紋の葵は「フタバアオイ」で、別種なのだそうだ。多摩といえば最後まで官軍に抵抗して徳川に殉じた新選組のご当地でもあり、その地に貴重な葵が咲くとは素敵な歴史のロマンだと思ったが、全くの偶然にすぎないようだ。
植物サイトで調べると、この寒葵の花も珍しい色と形をしている。4-5月が花期だというので、その時分にまた来て、裏山の自生地についても確認してみたい。

百草園駅前の花屋さんに、色とりどりの春の花の小鉢が並んでいる。どれも花つきが良くて安価だ。 プリムラと八重咲のジュリアンが、うちの近所で売っているののほぼ半額なのを発見。早速GETして今日のお散歩は終了♪

百草園と真照寺

昨夜NHK教育テレビの古典芸能番組で、厳島観月能「羽衣」「高砂」と共に「紀州徳川家版・石橋」が放映された。
「石橋」はいわゆる"唐獅子牡丹"で、お能としては比較的新しい曲であり、歌舞伎に近い、わかりやすい華やかさのある人気作品であると、一般の解説書などには説明されている。

私は初めて「石橋」を見たのは平成26年の三月、国立能楽堂恒例の能楽研修修了発表会を兼ねた「青翔会」で、シテは浅見重好(観世流)、ワキは喜多雅人(福王流)だった。浅見氏は1960年生まれで青翔会出演者としては最ベテラン組であるが、喜多氏は三十代前半の若手である。もっともこの青翔会には平成生まれもゴロゴロ出演していて、21世紀生まれが登場するのも間もなくだろうと思われる。
この時の「石橋」は半能で、ワキの名乗りの後すぐに獅子の舞となり、樵も仙人も登場しなかったが、シテの白獅子に加えて、ツレの赤獅子(角幸二郎、1975年生まれ)、赤白の二頭の獅子が、これも紅白の牡丹にたわむれながら連れ舞う姿は豪華絢爛で、「お能にもこんな派手なのがあるんだ」と興味深かった。若手能ならではのパワフルな舞台だった。

二度目は昨年五月の五雲会@宝生能楽堂。これも若手中心の会だ(シテ内藤飛能、ツレ辰巳大二郎・宝生流、ワキ則久英志・下掛宝生流)。
こちらは半能ではなく、ワキの寂昭法師大江定基が唐の清涼山に着き、文殊の浄土へ至る石橋を渡ろうとすると、ツレの樵童が橋の危険さを述べて去るという前場が、獅子の舞の前に演じられたが、正直あんまり記憶に残っていない。
後場の獅子の舞はシテ一人だけで、青翔会の時の連れ舞いの記憶に比べると、ちょっと寂しい感じもした。演出によっては四頭も出てくるのもあるらしい。また、親子の獅子が登場し「獅子は子を谷に落とす」を表現する舞もあると聞く。

ちなみに宝生流では、樵童はツレが演じるのであるが、観世などでは樵童が前シテ、獅子が後シテになるため、樵童の中入後、間狂言の仙人が登場して、清涼山の解説とか、「これまでのあらすじ」をまとめて述べたりする。小学館の謡曲集テキストもそうなっているが、私の見た五雲会は宝生流なので、樵童と獅子は別人(シテ&ツレ)であり間狂言の部分は無かった。
今回のNHKのは喜多流(香川靖嗣:シテ・樵童/獅子、宝生欣哉:ワキ・寂昭法師、大蔵教義:アイ・仙人)だが、間狂言が演じられるので、その部分は初めて見ることになる。

「石橋」の間狂言といえば、平岩弓枝先生の直木賞受賞作『鏨師』を表題作とする短編集の中に、『狂言師』という寛永の頃の能楽師・狂言師を扱った作品があり、これが能「石橋」それもその間狂言をめぐる物語なのである。
これを読んだ当時は、まだ能楽は見たこともなく興味もなく、したがって読んでも全く訳がわからなかったのであるが、わからないにも関わらず、何故か強烈な印象を残す物語だった。一口で言ってしまえば、芸のために命を懸ける…という話であるが、鼓を打つか打たぬかで遠島だの打ち首だのって、とんでもない話だなぁ、いったい史実なんだろうか?とか、要するに鼓師と狂言師の確執なのであるから、シテがちゃっちゃと出て来ておさめればいいのにとか思ったりもした。
しかしわずかここ数年であるけれど、時々お能に触れる機会を持つようになると、まさか現代ではこの物語のような事がある訳はないが、ある意味あってもおかしくない、というような、なにか張りつめたもの、緊張感が感じられるようになっている。少なくともそうした歴史を背負っている事は確かだという雰囲気を感じる。
この正月には初めて「翁」も見ることができ、『狂言師』の冒頭に出て来る面箱とか翁・三番叟の面の話もようやく理解できた。そういえば宝生能楽堂で正月の「翁」の面箱を務められていた大蔵教義さんが、この紀州家「石橋」のアイである。

『狂言師』で敵役となる小鼓打ちの太秦小左衛門という人物であるが、平岩先生の別の短編『猩々乱』(『ちっちゃなかみさん』所収)に、宮増小左衛門という同じファーストネームを持つ、やはり硬骨の鼓打ちが出てくるので、たぶん作者の創造した架空の人物だと思われるが、内容的にはモデルとなるような事件はあったのに違いない。芸の上での命のやり取りというのは、「富士太鼓」などにも描かれているように、もっと古い時代からあるのだろうから。

で、肝心の、間狂言の出で早鼓が打たれるのかどうかという問題であるが、昨夜のテレビ画面にアイの仙人が写ったときは、小鼓も大鼓も下に置かれていて、囃子は何もなかった。もっともテレビ放映は省略される部分があるので、登場の一番最初には鼓が鳴っていたのかもしれない。
ちなみに青翔会では、半能で間狂言はなかったけれど、小鼓は女性鼓師の岡本はる奈さんだった。
若い狂言師の芸を認めつつ、いや認めるが故に、あえて死に追いやった太秦小左衛門。拝領の鼓を断ち割り「鼓師の意気地、狂言師の意気地、いづれもよき能作らんが為のもの也」という書状を残していずこともなく立ち去ったとあるが、芸のために命を散らすのは悔いない世界とはいえ、この爺さんに共感するのは難しい。今じゃ女が能舞台にも立つし鼓も打つんですよ、と言ってやったらどんな顔をするだろうと思えてしかたない。

この小説の末尾に、作者覚え書のような形で、正徳六年に紀州家で「石橋」の上演があり、その時から「番手替り」間狂言の出は早鼓ありと早鼓なしが交替で行われるようになったとある。
もともと、この「石橋」は、紀州家初代徳川頼宜のお抱え能役者の伝承による紀州家独自の演出があり、選ばれた者のみに相伝されたという。明治になって大名家が消滅したあと、その上演も絶えてしまったが、このたび和歌山市と野上記念法政大学能楽研究所が協力して、紀州家独特の演出法で復曲させた。
通常の紅白牡丹の他に、紅白混じり(赤白に加えてロゼ?)の牡丹が白牡丹の並びに置かれ、合計三本の牡丹でより華やかな舞台装置に、また大きなよだれかけのような「胸掛」を獅子が掛けて登場する。この胸掛のデザイン、首の後ろに廻す部分まで含めた総長が一尺七寸五分、正面から見える部分の長さが一尺三寸とか、ちゃんと設計図(?)も残っておりそのとおりに制作したという。
紀州頼宜といえば、「南海の龍」と言われ戦国武将の気風を忘れず、後には由比正雪の乱の黒幕と疑われたこともあった殿様。いかにも南龍公にふさわしい、華やかで豪放なお能である。

紀州徳川家の「石橋」

朝日新聞販売所が隔週(東京以外は月イチ)発行し、新聞と一緒に配達される「定年時代」というタブロイド判のフリーペーパーがある。これに連載されている「さわやか散歩道」というコラムが、このところ、お散歩好き達の密かな注目を引いている。昨年とりあげられた日本唯一の「気象神社」も貴重な記事だった。

本日は、この最新号のコラムを参考に、原宿散歩を試みた。
昼前に梅ヶ丘図書館で雑用を済ませ、小田急線で参宮橋へ。
「時間にゆとりがある人は、原宿の街歩きの前に、明治神宮を参拝してもいい」とあるのに従って、まずは西参道口から境内に入ってみる。朝のうちは曇り空だったが、良い具合に陽射しが出てきた。
西参道はいつものように人影も少なく、静寂な佇まいだが、本殿に近づくといやに混雑していると思ったら、今日は新横綱稀勢ノ里の土俵入りがあるのだった。土俵入りは3時過ぎからの予定らしいが、正午を過ぎたばかりというのに、あちこち大変な行列が出来ている。

明治神宮で私が一番好きなスポットは実はここ(笑)向かいには葡萄酒樽も奉納されている。

      

南参道から正門を出て、神宮橋を渡る。まずは交差点の「銀だこ」で腹の虫養い。テイクアウト専門店のように見えるが、実は左手にエレベーターがあり2階にイートインがある。神宮境内や表参道の通りの賑わいにも関わらず、店内は誰もいなくて、ゆっくりたこ焼きを味わう。

     

表参道から右折して明治通りへ。コラムの最初に紹介されている慈雲山長泉寺へ向かう。明治通りと山手線線路の間に位置する寺だ。
本殿の裏の墓所は墓石が隙間なく並び、土手の上をひっきりなしに走る山手線が見える。山手線の築堤の際は急な石段になっていて、ここに石仏群が並んでいる。昔から民間で作られてきたと思われる素朴な石仏たちで、宅地造成中に発見され集められたものが二百体以上あるそうだ。
大部分が地蔵尊で、その他各種観音像もあるという。「童子」の文字が見えるものが多い。大きめの石仏には寛文年間とある。明治42年の「鐡道轢死者供養塔」もある。

     

長泉寺は曹洞宗の禅寺で、康平六年(1073)川崎土佐守基家により建立された。川崎基家は源義家の奥州征伐に従い、その軍功により渋谷・赤坂・麻布に渡る土地を拝領、この渋谷の地に草庵を開いたのが開基とされる。その後12世紀半ばに、観音堂が建てられ、渋谷金王丸の守り本尊といわれる「人肌聖観世音菩薩」が祀られた。
  
長泉寺から明治通りを神宮前交差点へ戻り、太田記念美術館へ。

     


広重の「江戸名所百景」のパロディ?「江戸名所道戯尽」や、「青物魚軍勢大合戦之図」などを描いた幕末の浮世絵師、歌川広景の展示があり、今日は学芸員のスライドトーク解説もあってじっくりと学習できる。浮世絵版画についてはまだまだ、新しい発見が現在進行形でなされているようだ。とても興味深いお話が聞けたので、別項で改めて取り上げたい。

展示を一通り見た後、地下売店の「かまわぬ」でいろいろなデザインの手拭を見ていると、あっという間に時間がたってしまう。

明治通りを北上し、東郷神社へ。祭神が日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎であることはよく知られているが、「東郷平八郎命」と「命」がついているのに改めて気が付く。(そういえば命と尊ってどう違うのだろう?)
数年前にNHKドラマになった「坂の上の雲」でもハイライトシーンだった広瀬中佐殉職シーンの絵などもかかっている。渋谷の市街の喧噪は聞こえず、タイムスリップしたようなスポットである。

      

 東郷神社境内から、渋谷区中央図書館の前を通って明治通りに戻る。歩道橋のところで右へ道を取り、神宮前三丁目交差点で外苑西通りへ出る。この辺は、渋谷区・新宿区・港区がぶつかり合っている所で、このまま外苑西通りを横切って進めば、すぐ左手は「はいくりんぐ現場検証」の「月と狸」でご紹介した、河内山宗俊の墓のある高徳寺である。その先は「女同士」の舞台となった北青山、神宮外苑・秩父宮ラグビー場の銀杏並木となる。

今回は、外苑西通りを左折して北上する。

   

このあたりの道の右側の見晴らしは、2020年のオリンピックに向けて再開発中なので、今だけの景観であるとコラムにあった。街のスポットというのは、出来上がれば何十年も続くおなじみの風景になるが、出来上がるプロセスはその時だけのもの、日一日ごとに変わりゆく景色だ。
スカイツリーも、ずっと以前の「現場検証」でたまたま写り込んだ、工事が始まったばかりの時の芽を出したタケノコのような風情の姿や、半分が出来上がり桜の中にある風景など、今にしてみると貴重な記録である。

今日は午後から晴れて、歩いていると少し汗ばむくらいの散歩日和だったが、そろそろ日が翳り始め、夕風も出てきた。左手に東京体育館、これに沿って左折すればJR千駄ヶ谷駅、右へ行けば信濃町である。
一駅間だけの散歩だったが、このようなちょっとしたコースをたくさん、お気に入り散歩道の引き出しに入れておきたい。

原宿散歩

今日は藤沢周平氏の命日「寒梅忌」、ことしは生誕90年・没後20年にあたるということで、鶴岡市の藤沢周平記念館でも特別展など企画されているようだ。また来月、昨年に続いてBSフジの「三屋清左衛門残日録」が放映予定というのも楽しみ。そうした事がそれほど賑々しく宣伝されていないというのも、故人の人柄を感じさせて気分が良い。
最近ちょっと忙しいので、『
三屋清左衛門』を読み返すのは来月廻しにして、とりあえずの寒梅忌読書用としては図書館でエッセイ集を借りてくる。忠臣蔵関連の短いエッセイが2本入っているのが、「忠臣蔵の恋」つながりで興味を引いた。

ひとつは松の廊下で内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛についてのエッセイである。
藤沢周平は子供の時に読んだ本の挿絵で、いかにもたおやかな紅顔の貴公子である内匠頭を、手荒く引きずっていく梶川が、憎々し気な剛力の荒くれに描かれているのを見て、梶川に対する憎しみを植え付けられた。この気持は、事件当時の江戸庶民を始めその後ずっと一般民衆に根付いた感情に共通するものだった。史実的にはごく全うで穏やかな生涯を終えた梶川について、世をはかなみ出家したとか、大石瀬左衛門に討たれたというような風説が伝えられていたという。
(もっとも私の知る限りの映画やドラマでは、梶川がそのように憎々しく描かれていた記憶はなく、普通の実直そうなオジサンというのが定番だと思うが…もっとも最近では、吉良上野介でさえ、「実際には良いヒト」に描かれるのが多いようだ。)
後になってはもちろん、梶川の行為はごく常識的なものであったと作者も考えるようになる。「咄嗟の場合に常識的に行動できたということは、むしろ人物がしっかりしていたと言えよう。」
現在でも、自分の意志と無関係に大きな事件に巻き込まれ、常識的な行動をとったにも関わらず、世間の「空気」のおかげで、嫌われ役になってしまう、というような事はあるのかもしれない。
もう一つのエッセイは逆に、たまたま吉良邸の隣に位置していた事から、赤穂浪士シンパとしての名を得ることになった旗本土屋主税について。以前にストファ掲示板で「忠臣蔵でお気に入りのシーン」が話題になったときに、この、隣家から高々と提灯が掲げられるシーンも挙げられていたと記憶している。

ちなみに藤沢周平は人気作品『用心棒日月抄』の中に梶川与惣兵衛を登場させている。『梶川の姪』という短編で、上記の通り、思いがけない人の恨みを買うことになってしまった梶川の身辺警護を主人公が務める話である。ラストシーン、他出する梶川を襲う暴漢と主人公たちが対峙し、首尾よく暴漢は倒されるのだが、その背後の真相は、意外なことに松の廊下事件とも、梶川自身とも無関係であったことを用心棒は知る。「人に見せてはならない、女の底深い場所に棲む生きものを、不用意に見せてしまったのを覗き見た気がしている。」
そして堀部安兵衛ほかの赤穂浪人との一瞬の接点も効果たっぷりに描かれている。用心棒シリーズの中でも屈指の名編だと思う。
シンパの土屋主税のほうも、どこかの短編に登場しているのだったら是非読みたいものだ。

ところでこの巻は「未刊行エッセイ集」で、50編以上の作品が収録されている。各篇ごと末尾に記されている媒体と出版年月を見ても、実にいろいろな媒体に、いろいろなテーマについて書かれたものだと思う。本業の小説でも精力的に作品を発表する傍ら、随分大変だったろうと思うが、きっと頼まれると断れなかったのに違いない。もっとも、そのおかげで我々読者は、珠玉の名エッセイの数々を読むことが出来る訳なのだが。

それにしても、どうしてこんなに未刊行のエッセイが数多くあるのかという事については、文芸春秋社で担当の編集者であった阿部達二氏が後書きで書いている。
「ひとつだけ弁解を許して頂くならば、藤沢は自分の書いたものをすべて保存し記録しておくという、作家としてごく普通の習慣を持たなかった――自分の書いたものはすべて本になる(本にする)ということを考えておらず、望んでもいなかった。エッセイは殆ど書き捨てのつもりであったらしい。」
こうした作家らしくない態度を敬愛しつつも、おかげで散逸する作者の原稿を集めるという大変な作業に振り回され、まだどこかに未刊行の作品が眠っているのではないかという不安に苛まれ、「欲のない人ほど本当に困ったものだ」とボヤく編集者に心から共感。頑張って探し続けて欲しい!

 作者自身の言も引用されている。
「大方はごく無責任な、つまらないことを書きなぐって、そのときどきの責めをはたすだけである。そういう雑文を本にするなどと言われると、待てよという気分になるのはやむを得ない」(『周平独言』あとがきより) 
このような言葉からは、「書く」ということをあまり重要視せず、無造作に書き捨てていたようにも思われるが、これは作者独特の照れ隠しの表現であって、ある意味藤沢周平ほど矜持を持って書いていた作家はいないように思う。それは、このエッセイ集の中の一篇「小説のヒント」からも窺える。テレビドラマがヒットしたことにより、その作品を生み出したのは原作者ではなく自分の方であると勘違いしてしまう脚色者、原作者のクレームに対し「法的には問題ない」と言って平然としている脚色者(とテレビ番組制作者)について、藤沢周平はごく抑えた表現ながら、はっきりと糾弾の姿勢を示している。
「これは法的な問題どころか、良心の問題ですらない。作家(書く側)のプライドの問題である。どんなにささやかなものであれ、自分自身のもので書くプライドがあって、はじめて小説が成り立つのだと思いたい。」
こういう所が周平さんの格好好い所だよなぁ、と思うのだ。まさに「寒梅」の佇まいではないか。

                北沢 森厳寺(淡島さん)
代田川緑道
                


    

 

寒梅忌2017

新年が明けたと思ったら、あっという間に1月も後半になり(毎年そう言っているのだが、)大河ドラマ「おんな城主直虎」も3回が過ぎた。
初回の印象は、登場人物たちの動きよりも、風景がとても綺麗に撮影されていたこと。山水の美しさ、水の国井伊谷という雰囲気が伝わってくる所がとても良かった。

紅白も大河も、スマホでネットの反応を見ながら楽しむのが昨今の主流だとか、私はまだガラケー族なので、ドラマの反響もたまにPCでちょっと覗くだけだが、けっこう笑えるものが多い。
「井伊の首、みんな持ってって!」駿河太守@笑点司会者は、やっぱり言われているようだ。
一番笑えたのは「井伊谷を何とかすっぺ委員会」というキャプションでの杉本哲太さんと吹越満さんのツーショット写真@あまちゃん、そういえば漁協組合長も井伊家にいなかったか?

さて肝心の内容であるが、子役たちが頑張っているのは評価できるとしても、子供の頑張りに頼り過ぎている感じがある。NHKの倣いで致し方ないとはいえ、子供に振り回される大人の演技が大げさすぎるのは、朝ドラなら許容範囲でも大河では白ける事が多い。

昨日の3回目では、姫・亀・鶴の子役トリオに加えて瀬名姫(後の築山御前)と子供時代の氏真も登場した。家康も子役が出るのだろうか?
せっかく登場させるなら、長過ぎた蹴鞠シーンの時間を少し省いて、そのぶん瀬名姫の両親と井伊家の繋がりなども、初回からもっと詳しく説明しておいたほうが良いのにと思う。
それに、今川の圧力に対抗して独立を願う井伊家という構図はわかりやすいが、「真田丸」でさんざん、あっちについたりこっちについたり、裏切ったのがばれてもシラをきりとおす、みたいな攻防に慣らされて来た視聴者にとっては、単純過ぎるというか少し物足りない。謀反を疑われて謀殺される井伊家の親族が、史実では兄弟二人のところドラマは亀之丞の父一人に省略してしまったのは仕方がないとしても、かなり杜撰な謀反計画みたいだし、井伊家の人材がこんな調子ならば、今川家の傘下に入った方がむしろ、この先安全なんとちゃう?みたいな感想を持ってしまう(-_-)

下でご紹介する関連本でも描かれているように、当時のこの地域は今川&井伊だけでなく、武田・北条・織田等など込み入った絡み合いがあった訳で、そのあたり、子供たちに親とか和尚が説明する形などでもよいから、或はナレーションの元直弼(これは気の利いた配役、もしかして最終回に登場とか?)の説明であっても、複雑な背景をもうちょっと視聴者にも共有させておけば、今後の展開にもっと興味がわくのにと思う。
もう十年も前の大河になってしまうが、「風林火山」は、そのあたりが多少敷居の高い所もあったけれども、甲斐だけでなく信濃・越後・駿河など各地の勢力の腹の探り合い・攻防戦をじっくりと描いていて良かった。

さて今回の主人公、「女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間、僧侶の名を兼て次郎法師とは是非無く、南渓和尚御付候名なり」と『井伊家伝記』に記された女領主井伊直虎。最近、男性であったという説も出てきたけれど、「井伊直虎」なる人物が男性であったとしても、次郎法師という僧侶の名を持つ女性領主が井伊谷をしばらく統治していたという事実は明らかであるらしい。戦国の世にこうした女性が存在したということは非常な興味をそそるけれども、史料が少ないため、長らく、知る人ぞ知る謎の存在であったようだ。

彼女を扱った小説は、探した限りでは下記の3点である。もちろん、他にもいろいろ出ているが、出版年の新しい大河ドラマ便乗本と思われるものは除く。この他に、津本陽が『獅子の系譜』という、井伊直政を主人公にした小説を書いているが、これは直政が家康家臣となってからの活躍を描いたもので、次郎法師については殆ど言及されていないようだ。

まず火坂雅志の『井伊の虎』(2013、初出は2012オール讀物)。これは家康周囲の人物たちについての伝記を集めた『常在戦場』の中の一短編だが、一番てっとりばやく概要がわかる。コンパクトでわかりやすい分、とくに作者の視点とか独自の思い入れというのはなく、台詞付きWikipediaみたいなもんである。はっきり言ってこの作者の場合、長編でもそういう感じのが多いが――というのは決して貶しているのでなく、某歴史小説大御所のように独自の歴史観を延々と述べる長大作がよいか、さっと読めて相応の基礎知識を得られ、解釈感想は読者の御自由というのがよいかという、全くの好みの問題。

梓澤要『女にこそあれ次郎法師』(2006、2004-5歴史読本連載)。この作者は1993年に歴史文学賞を受賞した『喜娘』を始め、古代・奈良・平安時代をテーマに数々の歴史小説を書いており、最近では戦国・江戸時代にも筆を伸ばしている。多くの登場人物それぞれのキャラが立っていて読みやすく面白い。

高殿円『剣と紅』(2012、2011-12別冊文藝春秋連載)。全く知らない作家で女性か男性かもわからなかったが、Wikiによれば、角川学園小説大賞奨励賞を受賞してデビュー、ファンタジー小説や漫画の原作なども書いている女流作家らしい。確かに表紙はそんな印象だが、内容はなかなか硬派な歴史小説だ。ヒロインが予知能力を有する女性として描かれている所などちょっとファンタジーぽいけど。全体のストーリーが、家康の小姓となった万千代(直政)が、主である家康に問われてマイライフを説明するという構成になっているのは良いアイデアで、ドラマでもこうした方法を取ればわかりやすかったかもしれない。

この三作品、ヒロインの名前は全部別々である。火坂作品では、どストレートに「直姫」。梓澤作品の「祐」はたぶん、次郎法師の尼としての別名「祐圓尼」からであろう。高殿作品では「香」で「かぐ」と読ませている。井伊家の伝説の井戸の傍に橘(かぐのみ)があったのが由来としている。
Wikiを見ると、生年・没年・幼名すべてわかっているのは亀之丞(後の井伊直親)だけなので、各作家も知恵を絞って名前をつけたようだ。以前に発表された作品とかぶってはパクりになってしまうし苦労する所に違いない。ドラマの「おとわ」は由来がわからないが、同じく幼名不明の小野政次が「鶴丸」なのは、亀に対して鶴という遊び心だろう。

年令も姫と鶴は没年しか史料がないらしいので、3人をほぼ同年齢の幼馴染とした設定も理解できるけれど、上記3冊では、姫と亀はほぼ同年だが小野家の鶴は年上で、もっと距離感のある関係に描かれている。
今後のキーパーソンはこの「鶴」かもしれない。現在、思いっきり悪役になっている父親の和泉守政直は間もなく病死してしまい、それをきっかけに亀之丞が戻ってくるという展開だが、そこで鶴丸(⇒政次)が氷のような悪役に変身するのか、それともヒロインへの恋心を隠しつつ、ハムレットのような悲劇の貴公子となるのか期待が持てる。高橋一生さんならどんなキャラでも達者に演じてくれそうなので楽しみだ。

今、同じ脚本家の「ごちそうさん」の再放送をやっていて、これから戦時中の話になっていく所だが、ヒロインが始めは国策に何ら疑問を持たない素直な「愛国婦人」だったのが、幼馴染の出征とトラウマを負っての帰還、更にはこんなに長引くと夢にも思わなかった戦況の中で、ついに自分の息子までも失い、その痛手に苦しみつつも、戦後をたくましく生き抜いていくという、その経過がなかなか良く書き込まれていたと記憶している。なので本作も安易な「戦はイヤ」の姫大河にはならないと確信するが、これからの大人パート、せっかく演技派の俳優さんたちが揃っているのだから、ぜひ見応えのあるドラマにしてほしいものである。

直虎はじまる

NHKの土曜時代劇「忠臣蔵の恋」が、1月14日の放送で第一部を終えた。
普通の忠臣蔵ドラマなら、ここで最終回である。映画でも連続ドラマでも、ラストシーンは大石内蔵助が最初に呼び出されて白装束で歩いていく姿に辞世の「あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」がかぶって終り、大石の切腹シーンは無いのが普通だ。しかしこのドラマでは、大石に続いてヒロインの恋人である礒貝十郎左衛門の切腹シーン(ヒロインが託した琴爪の袋を最期まで身につけており視聴者の紅涙を絞る)、そして泉岳寺での埋葬シーン。
忠臣蔵ドラマは数多いが、四十七士の埋葬シーンはこれが初めてではないだろうか。原作でも印象的なシーンだったが、良く映像化されていて「人の死は綺麗事ではない」という三田佳子さん(仙桂尼)の台詞も心にしみた。
そもそも、このドラマはヒロインの立場から描かれているため、討入は出発と引き上げのみで、吉良邸での戦闘シーンが全くないという、きわめて珍しい忠臣蔵だった。ヒロインとその仲間たちが、ひたすら雪の中を吉良邸門外で待ち続け、ようやく笛が聞こえる…という展開もいっぷう変わった緊迫感があって良かったけれど、せっかく四十七士に配役された男優さんたちは、やっぱり少し物足りなかったのではなかろうか。

老年期に入り暇になってから大河ドラマは必ず見るようになったが、土曜時代劇は見たり見なかったりで、本作品は「忠臣蔵の恋」というタイトルがベタ過ぎるのと、ドラマが始まった時の朝日新聞テレビ欄のコラムで「トレンディードラマの要素が過剰なまでに満載」という評を読み、こりゃ、あのナンチャッテ大河ドラマ「天地人」みたいな忠臣蔵なんだろうと思ってスルーしてしまっていた。
ところが「御宿かわせみの世界」の管理人さんが掲示板に「一味違った忠臣蔵で面白い。若い俳優さんたちもしっかり演じてる。」と紹介して下さったのを見て、あわてて8回目から視聴。トレンディどころか、しっとりした正統派時代劇で、原作が諸田玲子さんだったことも初めて知り、これなら最初から見たのに!と残念に思った。ちょっと番組サイト等のぞいてみればすぐわかったのに、コラム評を丸呑みにした自分が迂闊だったには違いないが、少なくとも原作者のあるドラマは、原作者名を書くのがルールだと思う(怒)。
まぁドラマが半分進んだところで、お正月に総集編をやってくれたので、見逃したところも大体わかった。原作も早速図書館で借りて読んだが、原作に忠実に、かつ情感たっぷりに脚色されているのも好感が持てる。

さて来週からの第二部、後篇はいよいよヒロインが大奥へ、そして将軍世子の側室・次将軍の生母にまで上り詰め、浅野家再興と、流罪となった四十七士遺児たちの赦免に向けて動いていくことになる。原作を読まずに見ていた人は、ここでようやく「えっ、このヒロインがあの人だったのか! そういえば「おきよ」=喜世だったのか!」とびっくりするのだろう。

後に六代将軍徳川家宣となる甲府宰相綱豊の側室で七代将軍家継の生母:左京の方お喜世、後の月光院は、小説や大奥もののドラマに多数登場している。しかし一般に月光院といえば絵島事件との関わりで登場するので、忠臣蔵に絡めて書かれるのは珍しい。
2007年のテレビ東京正月時代劇(これも今年から無くなってしまったのが寂しい…)になった湯川裕光作『瑤泉院・忠臣蔵の首謀者』では、瑤泉院の周囲で働く一員として登場していた(ドラマでは吹石一恵さんが演じていた。この当時は、将来福山雅治夫人になるとは全く予想つかなかった。)が、四十七士の一人と恋愛関係にあったとする設定は本作が初だろう。

ただこれまで描かれて来た月光院は、共通して美女には描かれているが、あまり聡明な女性のイメージではない。聡明な女性は家宣の正室近衛煕子のほうで、それと対比される存在になっていることが多く、絵島事件との関係にしても、絵島を身代わりにして自分はのうのうと大奥で優雅な一生を送ったように描かれ、悪女とはいえないまでも、あまり共感を呼ぶ存在ではない。典型的なのが平岩弓枝作(1971)の短編『絵島の恋』(角川文庫『江戸の娘』所収)に登場する月光院だ。
平岩先生は大石りくを主人公に、討入り・切腹後の浪士遺族たちの人生を描いた『花影の花』という、吉川英治文学賞も受賞した名作も書かれている。非常に素晴らしい作品で感動して読んだけれど、大石未亡人のその後の生涯があまりにも苦労の連続で、描写が優れているだけに読むのが辛くて再読できない(-_-) この中にも「(月光院は)上様御生母として大層な権勢であると聞く。かつて、自分が召使った女中が六代将軍の寵を受け、七代将軍の生母となっていることを、瑤泉院様はどんなふうにお考えだろうかと、りくは思いやった。」とあり、わずかな行数ではあるが、昔の主家の苦境など忘れてセレブ生活三昧のようなイメージである。 

こうした中で、諸田玲子のドラマ原作は、月光院の名誉回復の作品ともいえる。
もう一つ、月光院を肯定的に描いたものに『花鳥』という作品がある。作者は以前にストファ図書館で紹介した、「江戸切絵図」のプロデューサー尾張屋清七のシリーズの藤原緋沙子さん。昨年文庫が出たが、単行本が書かれたのは諸田作品より7年ほど前である。こちらでは浅野家の奥方付女中をしていたのはヒロイン自身でなくヒロインの姉となっており、赤穂事件は背景として描かれるのみで、直接の関係はない。少女時代のヒロインが、若き日の綱豊と偶然の出会いをして(タイトルの「花鳥」は、その時のシーンが元になっている)、波瀾の人生をひたむきに生きる物語である。文庫解説が詳しくわかりやすいのが嬉しい。

 『花鳥』文庫解説にも言及されているが、若き日の六代将軍との出会いといえば、大御所杉本苑子さんの『元禄歳時記』がある。ここに登場する月光院(この中では「おきよ」ではなく「お輝」。『花鳥』でも「お輝」である)は、キャピキャピの江戸娘として好意的に描かれている。(ちなみに、湯川裕光作品のように、月光院を京都出身とする説もある)。
『元禄歳時記』には、新井白石・間鍋詮房・河村瑞賢・紀文など実在の人物に加えて架空の人物も多数登場し、同じ作者の奈良時代がテーマの『穢土荘厳』のような、作者お得意の曼荼羅群像劇で、出版されて間もなく読んでとても面白かった覚えがある。40年以上も前の作品なので内容はすっかり忘れてしまったけれど。ただこれは綱吉から家宣に代替わりした所で物語が終ってしまい、生類憐れみの令などの悪政が廃止されてめでたしめでたしのハッピーエンド。将軍在位たった三年で世を去ってしまう家宣や、幼い家継の死は描かれないので、最後まで明るく楽しい物語として読める。ドラマ化にもぴったりと思えるのに、全集にも入っておらず、文庫も絶版なのは何故だろうか(アマゾンで古書は買える)。

浪士たちのうち、大石・礒貝など細川家お預けだった面々については、世話役であった堀内伝右衛門という人が覚書を残していて、切腹までの日々をどう過ごしていたかがわかるらしい。この堀内さんも、ドラマに登場していた。
1月第一週にドラマの番外編解説のような番組も放映され、福岡県で礒貝家の子孫の方が神社の宮司をしておられて、その家に十郎左衛門の討入の時の刀や呼子笛、大石内蔵助から拝領の盃などが残っているのを見て驚いた。元禄と平成は近かったのだ! そういえば、坂本龍馬が暗殺される直前に書いた手紙とかいうのが最近出てきたというし、まだまだ埋もれている史料はたくさんあるのだろう。誰も知らずに埋もれているのもあるだろうし、世間に騒がれたくないと、関係者がずっと隠していて、ようやく陽の目を見るというものも多いに違いない。
月光院と忠臣蔵・浅野家との関わりも、これまで思われていたよりも深いらしいことがだんだんわかって来つつあると、研究者の方が言っておられた。

さてドラマ「忠臣蔵の恋」、昨年の第一部はほぼ原作通りだったが、第二部の大奥編は、やや原作を膨らませて脚色されるようだ。原作ではラストシーンに一行しか言及されていない絵島も、清水美沙さんが演じ(このドラマでは「江島」)、通説と違って江島のほうが上司としてお喜世を厳しく鍛えるらしい。清水美沙さん「シコふんじゃった」の頃に較べすっかり貫禄もついて、武井咲ちゃんとの競演が楽しみだ。
NHKは今後も、しっかりした原作をもとに、若手とベテランが共に活躍するような面白い時代劇を作り続けてほしい。

忠臣蔵と月光院
宝生能楽堂の月並能1月は毎年「翁」で始まるが、昨年も一昨年も正月の日曜日というといろいろ予定が入ってしまい、今年ようやく「翁」を見ることが出来た。
能楽堂もお正月仕様になっていて、お着物でいらっしゃる方もいつもより多く華やかである。
そこここで「おめでとうございます」「今年もよろしく」の声も聞かれる。



「翁」 シテ:小倉伸二郎 千歳:金野泰大 三番三:大藏基誠

「翁」は本当に特別なお能で、「能にして能にあらず」といわれ「その成立は一般の能狂言よりも古く、猿楽の本芸であった翁猿楽を現在に伝えるもので、一般の能以前の古態をとどめている」(小学館編謡曲集の解説より)。
お調が聞こえた後、演者が登場するまで随分時間がかかると思ったら、「翁」上演に際しては鏡ノ間に祭壇を設け、お供えした神酒を全出演者が頂き、切火で身を清めるのだそうである。なるほど、だから地謡も囃子方に続いてぞろぞろと橋掛を歩いてくるのだ(最初、解説を読んでなかったのでびっくりした)。お正月は地謡・囃子方も裃姿なのはおなじみだが、「翁」では何と全員が烏帽子に素袍上下である。忠臣蔵松の廊下の始まりみたいだ。
この行列の先頭でしずしずと面箱を捧げ持って来るのが「面箱持」という役で、狂言方が務める(今回は大藏教義さん)。シテと千歳は、この面箱に納められている面を舞台上で舞の前に掛け、舞が終るとはずして箱に納める。面の取り外しが舞台上で見られるというのも「翁」だけである。
また、シテが最初に深々と拝礼したり、「鈴の段」で千歳が鈴を四方の柱に向って鳴らし寿ぐのも、神事としての特別な能ということで興味深かった。

「草紙洗」 シテ:東川光夫 ワキ:森常好 子方:和久凛太郎 アイ:善竹大二郎
 
小町ものの一つで、昨年9月に女性シテで見て今回は2度目。小町ものはこれしか見たことが無く、卒塔婆小町も通小町も見てないのに、また草紙洗だけど、これ大好きである。子方ちゃんも出るし! 舞は最後だけでドラマ中心の展開、悪役の陰謀・美女の危機・機転によるどんでん返しと大団円、という、シェイクスピア喜劇のような楽しさがある。欧米人にも受けるのではないかと思う。
ワキが通常のような謹厳で控えめな傍観者と違い、太郎冠者のようなコミカル性も含む人間臭さをもって出てくる。今回の森常好さんは恰幅もよく、憎々しげな敵役にぴったり。悪役がたくらんでいる事を観客に向って堂々と喋ったり、アイが和歌を間違えて唱し笑いを誘ったり、一人語りで「せっかく一曲だけ練習していたカラオケの曲を前の人に歌われてしまった。きっと自分の練習をこっそり聞いてパクったに違いない」などと主筋をなぞるような語りをするのもシェイクスピア喜劇に共通している。
子方は和久凛太郎くんで(冠と衣装がよく似合ってすごく可愛かった。詞章もしっかり言えていた)、和久パパも歌人たちの一人で出演されていた。紀貫之が野月聡さんだったが惺太くんの子方の草紙洗も見てみたい。子方は、船弁慶などでは、静が大人なのに義経が子方というのはちょっと違和感があるが、天皇の役で出る時は全く違和感ないというか、大人が演じるよりもむしろ自然に感じてしまう。平安期は実際、幼児や少年の天皇が多かったからかもしれない。
ちなみにこの「草紙洗」は上村松園が絵を描いており、そのエッセイが青空文庫で読める。昭和12年に書かれたものであるが、大変興味深い。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000355/files/47297_33239.html

「舎利」 シテ:藤井雅之 ツレ:亀井雄二 ワキ:高井松男 アイ:善竹富太郎

「仏舎利」は仏の遺骨のことだとは知っていたが、遺歯も含まれること、またお寿司屋さんの「シャリ」の語源がこれというのはお能を見始めてこの作品の解説で初めて知った。まだまだ日本人の常識が欠けている…白米が非常に貴重だった時代を感じさせる。
足疾鬼(ソクシツキ)vs韋駄天の闘いだが、鬼も韋駄天もちょっとコミカルな感じがあって楽しんで見られる。前半の里人の静かな部分(釈迦と仏法の話が延々と続くあたり)でずっと溜めに溜めておいて、一気に後半の激しい動きへと続くが、腕白小僧が親のスマホを(?)持って逃げ「返すのやだもん」みたいに片袖で舎利を抱え込みもう片袖を頭の上にかぶって座り込むところとか可愛くて笑える。ついに捕まってお尻ペンペン(??)あーあ取り返されちゃった、しおしお…と退場。の所で早目の拍手も許される感じの、わりと敷居の高くないお能?
今回の「舎利」は3回目で、この前和泉流のアイの時は、舎利を奪って逃げ去る鬼に突き飛ばされ橋掛中を転がり回るなど動きが派手だったが、今回は鬼と韋駄天の闘いも含め割におとなしめだった。

狂言「宝の槌」 太郎冠者:善竹十郎 主人:善竹大二郎 素破:野島伸仁

太郎冠者が主人にあれこれと言いつくろう、おなじみのパターンの狂言だが、「やるまいぞ」と追いかけて退場するのでなく、和やかに終わるところが正月らしい。
宝生月並能「翁」ほか