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◆この前の「世田谷七沢」の話から大分たっちゃったけど、今日はその続きで「世田谷八八幡」を巡ってお散歩します!

◇お正月、七福神巡りもいいけど、八幡様もいいよね。

おたま:八幡様といえば、富岡八幡は災難だったよねえ。長助親分はじめ、深川の皆さんもさぞ歎いていなさるだろうに。

◇でもツイッター見てたら「鎌倉の鶴岡八幡宮も、実朝が暗殺されるという大事件があったんだから大丈夫!」って誰かが投稿してた。

◆そうだよね、人生なにごとも前向きに行かなくちゃね~

◇ところで、八八幡って、江戸全体にもあるんでしょ。

おたま:そうそう、江戸の八八幡(ややはた)詣でっていうのが本家本元だよ。『六阿弥陀道しるべ』(御宿かわせみ14『神隠し』)で長助親分が説明してくれてる。
「まずは八八幡詣でと申しまして、深川の富岡八幡、市ヶ谷の八幡、高田村の穴八幡、ちょいと遠くになりますが青梅街道の妙法寺の先の大宮八幡、ここはなんでも八幡太郎義家のゆかりの社なんだそうで、それから、ずっと戻って来て千駄谷八幡、青山を抜けて行きまして渋谷八幡、渋谷川を行きまして大木戸の先の田町が稗田八幡、それから赤羽橋を渡って来て西の窪八幡、つまり八軒の・・・」

◇あれ? 平岩先生のご実家、代々木八幡は入ってないの?

全員:・・・・・・

おたま:ま、まぁ何だね、代々木八幡は鎌倉時代の創建でわりと新しいから、場所的にかぶる千駄谷の八幡(鳩森八幡)や渋谷の八幡(金王八幡)に比べると新参者ってことで、奥ゆかしくご遠慮申し上げたんじゃないかねぇ。なんせお宮さんって、いつ創建されたかわかんないくらい古い所もたくさんあるからねぇ。とにかく長助親分の説明の続きを読むよ!
「つまり八軒の八幡詣でをするってえと御利益があるんだそうですが、なんてったって十五里も歩き廻るんで、一日でお詣りしようとなると、なかなかえらいことになります」

◆げっ、十五里!60キロを一日で?!

おたま:世田谷八八幡はそれに比べりゃ世田谷区内だけだし、それも今回は2回に分けて行くんだからずっと楽だよね。今日は西側の三つを巡りま~す。出発は京王線の下高井戸駅から。

◇駅前の通りをいくと小学校が・・・あ、ここがこの前話題に出た松沢小学校か。松原の松と北沢の沢で松沢、住所は赤堤だったよね。

おたま:小学校の前は五差路になっていて、前方右手にあるのが鯛焼きで有名な居酒屋「たつみ屋」さん。今日は正月でまだ店やってないね~残念。松沢小のPTAの打上げも、この先の日大の学生さんたちのコンパも、みんなここ!

◆日大文理学部・日大桜丘高校・区立緑丘中学校と、学校の並ぶ間を抜けて右折すると、まず最初が「勝利八幡」だね。

◇八幡様は応神天皇とその母神功皇后をお祀りして、戦の勝利をお願いする神様だけど、名前も「勝利八幡」っていうのは珍しいね。



おたま:万寿三年(1026年)に京の石清水八幡宮から勧請、もともとこの地にあった山谷稲荷の御神体と合祀して上北沢村の鎮守となってきた神社なんだね。天明八年(1788年)に再建された旧社殿は世田谷区の有形文化財になってるんだって。「勝利八幡」の名前から、スポーツ関係者の参拝が多いことでも知られているよ。

◇そういや隣は日大陸上部の寮だね。入口に「闘志なき者は退去すべし」って看板がかかってる。

◆う~ん気合入ってるな~。

◇勝利八幡の前を西へ進んで荒玉水道道路と赤堤通りを越えると、次の八幡宮が。

◆これは何八幡?

おたま:ここはね~ただの八幡(笑)っていうか「八幡山の八幡」。最寄りの京王線の駅の名が「八幡山」で、鳥居の扁額も「八幡社」「八幡宮」だけなんだよね。


 
◇○○八幡と言わなくても、八幡様といえば地元の人たちにはわかったって事よね。「ザ・八幡」っていうことか~

おたま:創建は鎌倉時代とも室町時代とも言われていて詳細は不明なんだけど、この八幡が出来て以来現在までこの地が八幡山と呼ばれているんだね。その前の中世時代は「鍛冶山」と呼ばれていて、鍛冶屋が使う炭をまかなう森だったとも言われてる。徳川幕府が出来ると井伊領になって、井伊家の御用林になったそうだよ。

◇「木材」は、大河ドラマの直虎でも、井伊家の重要なアイテムだったよね!

◆八幡山っていうのは、昔はこの辺って山だったの? あんまり高低差とか坂道も無いようだけど・・・

おたま:「山」って、平地でも樹木がこんもり茂ったところを言うこともあったみたいだよ。このあたりは、ずっと杉と雑木の林だったらしいけど、まぁ人里離れた所だったんだろうねぇ。『新編武蔵風土記稿』にも「山林の内」に鎮座していたとあるそうだから。でもここの山車は世田谷区内で一番立派なんだって。

◇あ、八幡山遺跡の立派な石碑が・・・。

おたま:ここから縄文時代の土器などが発掘されているんだよ。また、江戸時代のものと思われる炭焼窯も発掘されている。

◆明大八幡山グランドと日大学生寮の前を過ぎると環八だね。あっ、千歳台交差点の歩道橋に「七沢」の話題で出た「廻沢」の名が!

おたま:この交差点を渡れば芦花公園だけど、ちょっと戻って烏山川の流れをたどりながら、もう一つ北側の交差点で渡ろう。数年前まではまだ水路があったんだけど、今は緑道になっているよ。

◆このうねうね加減がいい感じ!

◇交差点を渡れば粕谷八幡が!本日のゴールだぁ~~

おたま:粕谷八幡のある蘆花恒春園、通称芦花公園は、徳富蘆花の旧宅と墓所で有名だね。蘆花は明治40年に粕谷村に移転、夫人と共に晴耕雨読の生活を送った。当時の粕谷村は、家が二十数戸しかない寒村だったけれど、蘆花はこの地に深い愛着を持ち「世界を一周してみて、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。」と書いているんだって。

◆そんなふうに言われたら地元の人は嬉しかっただろうね!



おたま:著書『みみずのたはごと』には、村の人々の生活や村祭りの様子などが詳しく書かれている。「徳富蘆花粕谷村入り百年記念碑」の裏側に当時の粕谷村の地図が描かれているね。

◇わ~ほんとに数えるほどしか家がない!

◆鳥居のそばに「別れの杉」の説明があるね。今は枯れてしまっているけど、蘆花が、訪ねてくる人が帰っていくのをこの杉の木の下で見送ったんだって。

◇この、切株が金属の笠をかぶっているみたいなのがそう?

おたま:うん、二代目の若い杉が植えられたけれど、古い切株も大切に保存しているんだね。蘆花の客だけでなく、その後の戦争で出征する村の若者たちを、村人が見送ったのもこの杉の木のところだったそうで、地元の人々には深い思い入れのあるものなんだろうね。
さっ、この次は残りの五つ、一気に行くからね!

参考:区制50周年記念 世田谷、町村のおいたち(世田谷区区長室広報課)
   せたがや社寺と史跡(世田谷区教育委員会)
   世田谷区史跡散歩(学生社)

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世田谷八八幡めぐり(前篇)

 
 今年は「戊戌」。
十干の五つめ「つちのえ=戊」と、十二支の最後から二番目「戌」の組み合わせで、似たような文字が重なってややこしい。他にも「甲申」とか「己巳」とか、ややこしい年がありますね。
「子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥」の十二支のほうは、今も一応、日本人の常識として定着しているように思われる。やっぱり動物のイメージというのが子供にも親しみやすいし「自分が何の歳か」というのは、親が教えなくても幼稚園での会話などで、自然と認識するようだ。

それに比べると十干「甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸」の方はかなりハードルが高い。「甲乙丙丁・・・」位までは言えても、さてその先って何だったっけ、となってしまう。我々世代だと、中学校の数学の参考書などで古いものはまだ、「甲の所持金は云々、乙の所持金はその何倍・・・」とか、「甲地点と乙地点は○○キロ離れて(さすがにもう○○里とか○○町ではなかった)」とかいうのが残っていたが、それもせいぜい甲乙丙くらいだったし。

ウォーキング愛好者の中では、道標・石塔オタクの人々がこれに詳しい。江戸以前のものは殆ど、元号と共に干支が記されているので、○年という数字はすり減って読めなくなっていても、干支がわかれば何年に建てられたものか類推できるのだ。まぁ単にブラブラ歩くだけの私レベルでは、せいぜい「庚申塔」で「庚申・・・カノエサル?」とか薄く反応するくらいだが。

で、我々一般人にはせいぜい、年賀状に書く時になって「来年は何だっけ?」とあわててネット検索したりするくらいな存在の十干。ようやくわかって書く、いや入力するだんになって、「変換されないよ~この字。どうやって出すんだ」ということになる。カシコイ人は「十干って、モッカドコンスイのそれぞれに、兄と弟だから、キノエ・キノト・ヒノエ・ヒノト・ツチノエ・ツチノト・・・あっ、ツチノエだ。ほら出たよ戊」などと、なんだかマジナイのような事を言って差をつける。確かにやってみると、オバカで名高いIMEでも、キノエ甲からミズノト癸まで、十文字全て一発で変換できる。「モッカドコンスイ=木火土金水=き・ひ・つち・か・みず」+「兄=え、弟=と」を覚えてさえいればOKということだ。

もっとも、そこからいちいち出発するのは面倒くさいのも確かで、もっと簡単に出す裏ワザは、歴史上の事件を活用することだ。今回も、大騒ぎしてようやく「ツチノエ=戊」を出したあとで、「あ~<戊辰戦争>と打てば一発だったんんだ」と後から悔しかった。
今後のために少し考えてみると、「乙巳の変(大化の改新)」まぁ乙は「オツ」で簡単に出ますがね。カノエは先ほども触れた庚申塔・庚申塚、そして「辛亥革命」に「壬申の乱」。壬申の乱といえば、今上天皇退位後は皇太子でなく皇太弟という存在が浮上することから、「すわ平成壬申の乱?」などという見出しを週刊誌で見た記憶があるが、壬申の乱は672年、この次の「壬申」は 2052年になるわけで、平成など遠い昔、元号がまだあるかどうかも怪しい。

ところで中国では、十干が現在でも有機化学の命名法に使われているそうだ。炭素の数が1,2,3,4・・・と増えるにつれて、日本では西洋に倣ってメタン、エタン、プロパン、ブタン・・・と名付けられている。中国語では西洋語を使わず炭素の数に十干をあてるため、炭素数2のエタノールは「乙醇」、炭素数4のブタジエンは「丁二烯」、炭素数8のオクタンは「辛烷」で、ハイオクガソリンは「高辛烷的汽油」になるんだそうだ。ややこしいけと何かかっこいい。さすが漢字の国。

いちおう十干の十個の漢字はわかったところで、それぞれの正確な読み、あらわす意味など、まだまだ奥が深く知らないことが多い。「戊」など日常では全く関りがないと思っていたところ、「茂」のクサカンムリを取れば「戊」で、意味も繁茂する、栄えるなど似たものらしいということを初めて知った。日本人の常識、まだまだ目標は遠いです。

謹賀新年 戊戌2018
あっという間に今年も御用納めに・・・

尽句@「御宿かわせみ談話室」も3回目を迎え、とりあえず最低の「三日坊主レベル」までは達することが出来て良かったです。皆様のご支援ご協力に感謝いたしますm(__)m
三日・三月・三年などと言いますが、まぁ先のことはあまり心配せずに、今後とも気楽にまいりましょう(^^;

さて「かわせみ」には「師走」のつくお話が二つありますね(御本家データベースに感謝!!)
一つは何といっても、かわせみ第一巻に『初春の客』と対のように並ぶ名作『師走の客』、そしてこれも初期の、心に残るお話『師走の月』です。

『冬の月』という話もあるので、ごっちゃになってしまうのですが、『師走の月』は、畳職人として良い腕を持ちながら、親心故に犯してしまった罪の自責で悲劇に終わる老職人、『冬の月』は経済的には不足のない老後を過ごしながら孤独に苛まれ、ほの見えた癒しもすぐに奪われて、さらに深い孤独に陥る老商人、と、どちらも悲しい老人の話でした。
シリーズを読み始めた頃は、源さんとかお吉さんのような傍観者的立場で読んでいたものですが、この頃はもう、当事者の老人の気持ちにすっかり入り込んでしまいます(-_-)

『師走の月』は確か、山本学さんが畳職人の鉄五郎を演じていたような記憶がありますが、テレビ朝日版だったでしょうか。NHK元祖版だと山本さんじゃちょっと若いですもんね。『冬の月』のほうは映像化されてましたっけ・・・
『師走の月』の登場人物で、もう一人印象に残るのは、女たらしの新三兄さん。
「たしかに、東吾さんと一脈、通じるものはありますな」
という源さんの台詞が笑えますが、一見いかにもモテそうには見えないし自堕落で傍迷惑なのに、なぜか女のほうが、迷惑をかけられた事を愛されていると勘違いしてしまうようなタイプ、平成の(そして平成の次の)世の中にも、結構いそうですよね。この人物を誰が演じていたかというのは覚えていないんですが、またリメイクするとしたら、「直虎」で龍雲丸をやっていた柳楽優弥くんあたりかな?
江戸編ではこうした、かわせみレギュラー以外の、その一話にしか出てこないキャラたちが、本当に生き生きと物語の中で動いてましたね。明治編ではそのあたりがちょっと(以下略)



『師走の客』はもう、今更コメントの必要もない初期を代表する名作の一つですが、やっぱりハッピーエンドっていうのがいいですね!
代々木野の稲垣先生は、1993版の文庫本ではまだお名前が出てこないで「老師」としかなってませんが、新装版では改訂されているんでしょうか?
写真は代々木八幡の隣の福泉寺にある、斉藤弥九郎の墓です。
かわせみ談話室 2017 12月
 

仕舞「竹生島」 泉房之介(泉雅一郎の長男、11歳)

仕舞「清経」 谷本康介(谷本健吾の次男、7歳)

仕舞「西王母」 馬野桃(馬野正基の長女、10歳)

舞囃子「橋弁慶」 観世銕之丞 谷本悠太朗(谷本健吾の長男、10歳)

狂言「棒縛」 野村万之丞 上杉啓太 河野佑紀

能「小鍛冶」 前シテ(童子) 馬野訓聡(馬野正基の長男、12歳)
      後シテ(稲荷明神) 長山凛三(長山桂三の長男、12歳)
      ワキ(三條宗近) 森常好 
      ワキツレ(勅使橘道成) 宝生尚哉(宝生欣哉の次男、14歳)
      アイ(宗近の下人) 野村拳之介(野村万蔵の次男、18歳)
青山能MIRAI

◆おたま姐さん、最近、世田谷一周ウォークで忙しいんですってね。なかなか顔見せてくれないから、こっちから遊びに来ましたよ~

◇だけど、おたま姐さんは深川育ち、亡くなった旦那さんは丹波の出のお人だったそうなのに、なんで世田谷なの?

おたま:そりゃぁねぇ、亭主と知り合うもっと前にさ、むにゅむにゅ・・・そんなこたどうだっていいんで、あんた達も参加しなさいよ世田谷一周ウォーク。これまでの記録はこちらですよ。
http://www.fujinsha.co.jp/2017/11/21/seta-walk1-report/
http://www.fujinsha.co.jp/2017/12/05/seta-walk2-report/

◆◇え~~お花見の頃とか、景色のいい所をぶらぶらお散歩するならいいけど、この寒空の下で十数キロも、ひたすら区境を行軍するなんて、遠慮しときますわ。

おたま:しょうがないねぇ。それはそうと、世田谷には「沢」のつく地名がいろいろあるよね。「世田谷七沢」って言われているんだよ。

◆そうそう、多いよね! 七つどころじゃないんじゃないの? まずは本多劇場はじめ、演劇やアートの街、下北沢の北沢でしょう。北沢タウンホールもあるよね。

おたま:さすが~~早速正解です! JRが走らない世田谷区内では、南部は東急、北部は小田急・京王線と、私鉄が重要な役割を果たしているんだけど、下北沢は小田急と京王井の頭線の乗り換え駅。小田急下北沢駅は最近、地下に入ってしまったけど、井の頭線の下北沢駅のほうはまだ昔ながらのホームが使われているよ。

◆オリンピック公園の駒沢も沢がつく!

おたま:うん。でもね、駒沢というのは明治になってからの新しい名前で、昔は馬引沢っていったんだ。今の上馬・下馬も、馬引沢だったの。馬「牽」沢と書いてある史料もあるよ。なぜ馬引沢という名前がついたかというと、源頼朝が奥州征伐に向った時、乗っていた馬がここで沢に落ちて死んでしまったので、「今後このような沢地を行く時は、馬に乗らず馬を引いて行け」という命令を出したからなんだって。この死んだ馬のために建てた「葦毛塚」の碑が、今も下馬五丁目の世田谷区と目黒区の境の所にあって、次回のウォークで通る予定だよ。

◇そうだったのか~。そういや、「沢」も多いけど、「野毛」だとか馬関係の名前も多いよね。

おたま:東隣の目黒区も、東大教養学部のある「駒場」があるしね。このあたりは源平時代から、軍馬の往来が激しかったし、明治時代にも陸軍の騎兵隊の演習地で、マンション街の一角に秋山好古の名前のある碑が建っている「騎兵山」の跡があるんだよ。

◆北沢に馬引沢、三つめは・・・あっ、うちのイトコが世田谷区に住んでて子供が松沢小学校というのに通ってるっていってた。創立130年にもなる古い学校だっていうから、「松沢」も七沢の一つでしょ?

おたま:惜しい! 松沢というのはね、確かに古い名前なんだけど、やっぱり明治以降なんだ。明治になって、それまで細かい村々に分かれていた郊外が再編成された時、北沢・赤堤・松原の三つの村が合併して、松原の「松」と北沢の「沢」とで「松沢」になったの。赤堤は位置が真ん中なので、名前が残らない代わりに、村役場や学校が置かれた。だから今でも松沢小学校は住所は赤堤なのに名前は松沢というわけ。

◇そっか~。じゃ、もしかして「代沢」も、「代田」と「北沢」なのかな?

おたま:ピンポーン! その通りです。

◆うーん、あとはどこかな~

おたま:南のほう、多摩川に近いほうを見てごらん。

◇もう地図を見ちゃおう。あっ、あったよ! 奥沢に深沢。

◆奥沢って九品仏のあるところだよね。

おたま:そう、九品仏で知られる浄真寺は、四代将軍家綱の時に開基されたのだけど、もともとは奥沢城という城があった所で、今も境内に土塁の跡が見られる。奥沢城は世田谷城の出城で、世田谷城と同様、後北条氏と姻戚関係を結んていた吉良氏の支配下だった。

◇奥沢は奥のほうにある沢だから? 深沢は、深い沢があったのかな~

おたま:う~んどうだろう。深沢は、都立園芸高校のあるところで、明治41年に出来たこの園芸高校は、都市近郊型の農業の開発に大きな力となったんだよ。

◆えーと、あとは・・・あっ、「野沢」もあるよ。

おたま:ネット検索とかすると、野沢も七沢の一つにする説もあるんだけど、厳密には「野沢」は沢があったからじゃなくて、別の理由からついたものらしいんだ。江戸に幕府が出来てからも、このあたりは田畑のない未開拓地だったんだけど、17世紀半ば頃から多摩川河口の六郷領沢田という所から開拓者が来て次第に開かれ、沢田新田といわれるようになった。また葛飾の野村治郎右衛門という人も開拓に尽力した。というわけで、沢田の「沢」と野村の「野」で、「野沢」になったという。

◇そうなのかぁ~、でも他に「沢」のつく所は見つからないけど・・・

おたま:たぶん、これ以上は、世田谷区民でもわからない人が多いと思うんだけど、今はもう残っていない地名で、「池沢」村と「廻沢(めぐりさわ)」村というのがあったんだよ。池沢という地名は今は残ってないけど、このあたりの目黒川沿いの低地にかなり大きな池があり池沢と呼ばれていたらしい。池の端と思われる「池尻」の名は今もあるし、井の頭線の下北沢の次の駅が「池ノ上」だからね。

◆廻沢って、読み方は難しいけど、いい名前じゃない? なくなってしまったのは惜しいよね。

おたま:そうだよね。芦花公園のあたりだけど、地元の人も無くすのは惜しいと思ったんだろうね、バス停や通りの名前、歩道橋の名前などには残っているみたいよ。

◇えーと、北沢・馬引沢・深沢・奥沢・池沢・廻沢・・・まだ六つだけど、もう一つあるの?

おたま:実はですね。北沢が、上北沢・下北沢と二つありまして、それで七つなのです。

◆◇え~!?

おたま:区制50周年を記念して世田谷区が刊行した「世田谷、町村のおいたち」という資料にこう書いてある。
「世田谷は丘と谷が交互する土地ですが、この谷のいくつかには、ところによって小さな沼沢地――あるいはそれに近い低湿地――がありました。田にできるところは田にし、それが不可能ならば葦の生い茂るにまかせていたものです。このような土地を”沢”と呼んだようで、これが地名に使われています」
「七沢というのは馬引沢、池沢、深沢、奥沢、廻沢、上北沢、そして下北沢です。」

◇地図を見ると、上北沢と下北沢って、けっこう離れてるし、それぞれ独立してるっぽいよね。なんで同じ北沢がついたんだろう。

おたま:それは北沢用水という、玉川上水から分水して作った農業用水の、上流部分が上北沢、下流部分が下北沢なんだ。今はもう水の流れはなくて緑道になっているけど、このあたりの農地にとってとても重要な用水だったわけ。地図を見ると、上北沢のあたりの、杉並区との区境がとても変わった形をしてるでしょう。区境の北側は、甲州街道の高井戸宿だったわけだけど、上高井戸と下高井戸の間をぐさっと上北沢が上に伸びて突き抜けている感じ。これも上北沢の村の人たちが用水を開発した周辺が、流れに沿った形で村の区画になったからなんだよね。

◇◆なるほど~、土地の名前を探っていくと、その土地の歴史がいろいろわかるんですね~

おたま:世田谷区に限らず、地域の図書館には必ず、その土地の歴史に関する資料が揃えられているので、寄ってみると、「長く住んでいたのに、全然知らなかった!」という発見がありますよ!
世田谷七沢八八幡
三曜会は、観世喜之氏のお弟子の佐久間二郎さんが、毎年12月の始めに開催しておられる会で、2013年に「船弁慶」を見てから二回目である。
今回は「船弁慶」の姉妹編のような「碇潜」に「橋弁慶」(両方とも子方ちゃんが出る!)それに仕舞は「鞍馬天狗」「屋島」、狂言は先週も拝見したばっかりの野村万作・萬斎父子共演と、いくら忙しくてもこれを見ないでどうするという内容で、早々とチケットを申し込み、ぜったいにこの日は他の予定とぶつからないように注意していた。12月はまだまだ先だと思っていたらアッという間だ。


 
仕舞「鞍馬天狗」 観世喜之


能「橋弁慶」

仕舞「屋島」 観世喜正

狂言「舟渡聟」

能「碇潜」
三曜会(第六回佐久間二郎能の会)
「矢大臣か」
矢大臣は矢大神とも書き、本来は神社の随身門の右側にある像の名称であった。弓矢を持って門を守る役目なので、矢大臣と呼ばれるのだが、片足を下へおろし、片足だけを胡坐をかくような恰好で上へあげている。
その形が居酒屋で明樽に腰をかけた客がやるのとよく似ていることから、そうした縄のれんの客を矢大臣といったり、ひいては居酒屋そのものを矢大臣と呼んだりする。
               『矢大臣殺し』(文庫『御宿かわせみ』17、『雨月』より)

     *********************************

全く季節違いのこのお話に注目したのは、これが「かわせみ版:オリエント急行の殺人」として話題になったことがあり、近々、このオリエント急行殺人事件のリメイク版が、ケネス・ブラナーやジョニー・デップを始め超豪華スター競演で上映されるというので楽しみにしているためです。

アガサ・クリスティの原作が書かれたのは1934年。大昔もいい所で、千春ちゃん等かわせみキッズたちだって、ひょっとしたらまだ存命だったかもしれないくらいの頃ですが、クリスティ作品の中でも一二を争う人気作品で、何度も映像化されていますね。
有名なのはショーン・コネリーなどが出演したこれも超豪華配役の1974年MGM映画で、劇場では見られず後のテレビ放映で見ましたが、原作に忠実なオーソドックスな豪華大作だったと思います。

最近では、三谷幸喜脚本、野村萬斎のポアロで2015年新春の特番テレビドラマとして放映されたものが記憶に新しいですね。舞台を昭和初期の日本に置き換え、「オリエント急行」が「特急東洋」で、走る区間が下関~東京というのはやや、本場に比べるとちゃっちい感があったものの、登場人物はうまく翻案されていて豪華メンバーだったし、前篇後篇構成で、後篇はオリジナルで犯行の経緯を詳しく描く、というのが、刑事コロンボに触発されて倒叙ミステリーの新境地を開いた三谷脚本らしくて面白かったです。

かわせみ版お江戸のオリエント急行はもちろん、長篇の元祖に対して連作中の一短編ということで、ずっとこじんまりした話になっています。元祖は史実の事件がモデルであり、殺人犯人への恨みに加えて弱い立場の者が冤罪の犠牲者になっているというのが、単なる復讐譚でなく物語に深みを加えていますが、かわせみ版のほうは、どうも「悪い奴を皆でやっつけてメデタシメデタシ」というだけで終っちゃってますね。
それと、はっきり言って東吾さんが出しゃばり過ぎ+いい気になり過ぎ。
これ、東吾さんの登場がなくて、源さんが捜査の結果真相にたどりつくけれども、自分一人の胸におさめて・・・みたいな展開のほうが情感のある話になったと思うけれど。しかし、それでは、かわせみ物語にはならないなぁ(^^;

せっかく取り上げたのに悪口なんて、それならそもそも話題に出すなよとつっこまれそうですが、そもそも出しゃばりといい気は東吾さんのトレードマーク(?)で美点と裏表のキャラになってるわけだし、かわせみ常連面々も元気いっぱいで、明治編と比べるとこの頃は賑やかでよかったな~と思います。確か大工の源七さんは、後の話で登場しますよね~~何のお話だったかしら?
佐賀稲荷というのも現在も佐賀二丁目にあるようで、あちらの方に行くついでがあったらチェックしてみたいです。

<追記>

ということで、深川佐賀町の佐賀稲荷、行って参りました。



佐賀稲荷は寛永7年(1630)、埋立地として新しく開かれた町の人々の除厄招福を願って創建されたもので、祭神は稲の霊宇迦之魂命。明治以降は米問屋が集い商売繁盛の稲荷として栄えた。当時の米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している。また倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持で奉納された力石がある。


かわせみ談話室2017 11月
十回記念ということで、常にも増して超豪華な顔ぶれ・・・12歳ながらもう子方というより人気実力兼ね備えた若き能楽師のオーラを振りまきまくる凛三くんとパパ桂三氏親子の義経・弁慶に加えて、馬野パパや武田家ご兄弟・坂井家ご兄弟始め、主役級のシテ方皆様が郎党でドヤドヤとご出演、その上、銕之丞師は師匠だから当然としても、野村四郎・浅見真州ほかの大御所が仕舞や地謡・後見で、狂言は万作師・・・と思ったらなんとアイの強力で萬斎さんも登場。
長山家は今年、ご自宅のお稽古場に立派な「長山能舞台」を落成されたというし、乗りに乗っているという感じ。
5月の「春栄」、9月の「海士」に行けなかったので、今年最初で最後の桂諷會になってしまったが来年以降の凛三くん達の活躍ますます楽しみだ。

桂諷會は番組がとても充実していて、仕舞や舞囃子の曲目についても詳しく解説されているし、どの部分が演じられるかという記載もあるので、初心者には大変ありがたい。

舞囃子「鞍馬天狗」 長山凛三

仕舞「実盛」 野村四郎

「その執心の修羅の道、めぐりめぐりてまたここに、木曾と組まんとたくみしを、手塚めに隔てられし無念は今にあり」
「老武者の悲しさは、戦にはし疲れたり、風にちぢめる枯木の力も折れて・・・篠原の土となつて影も形も亡き跡の、影も形も南無阿弥陀仏、弔ひて賜び給へ、跡とぶらひて賜び給へ」
 
仕舞「仏原」 長山禮三郎

「ひとりなを仏の御名を尋みむ、をのをの帰る法の場人(にはびと)」
「法の教へもいく程の世ぞや、前仏は過ぎぬ、後仏はいまだ也」
「嵐吹く雲水の、あらし吹く雲水の、天に浮かべる浪の一滴の露の始めをば、なにとか返す舞の袖、一歩挙げざる前をこそ、仏の舞とは言ふべけれど、謡ひ捨てて失せにけりや、謡ひ捨てて失せにけり」
 
仕舞「船弁慶」 鵜澤久

「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛幽霊なり」
「あら珍しや、いかに義経、思ひも寄らぬ浦波の、声をしるべに出舟の」
「夕波に浮べる長刀取り直し、巴波の紋あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹きかけ、眼もくらみ心も乱れて、前後を忘ずるばかりなり」
「その時義経すこしも騒がず、打物抜き持ち、現の人に向ふがごとく、言葉を交し戦ひ給へば、弁慶押し隔て、打物業にてかなふまじと、数珠さらさらと押し揉んで」
「なほ怨霊は慕ひ来るを・・・また引く汐に揺られ流れて、跡白波とぞなりにける」
 
狂言「清水座頭」 シテ(座頭)野村万作 アド(瞽女)中村修一

舞囃子「頼政」 観世銕之丞

「そもそも治承の夏の頃、よしなき御謀叛を勧め申し、名も高倉の宮の内、雲居のよそに有明の、月の都を忍び出でて、憂き時しもに近江路や、三井寺さして落ち給ふ」
「さるほどに源平の兵、宇治川の南北の岸にうち臨み、鬨の声矢叫びの音、波に類へておびただし」
「さるほどに入り乱れ・・・これまでと思ひて平等院の庭の面、これなる芝の上に扇をうち敷き」
「さすが名を得しその身とて、埋れ木の花咲くこともなかりしに身のなる果はあはれなりけり」
 
能「安宅」
第十回記念桂諷會 「安宅」

大河ドラマもあと数回を残すのみとなり、主人公も事実上、直虎から、徳川家における井伊直政(まだ万千代であるが)に移行した。
徳川といえば、なんといっても山岡荘八の17年に渡る執筆という、全26巻『徳川家康』…岡崎城には直筆を彫り込んだ石碑も建てられている。
とても通読する根気はないが、今年の大河ドラマに対応する部分だけ拾ってみようかと、最寄りの図書館に文庫が全巻そろっている(はっきり言ってほとんど貸し出されず、いつも全巻そろっている(^^;)のを幸い、ちょっとチェックしてみた。

井伊万千代登場は4巻の終わり近く。大河ドラマと違って、最初から虎松ではなく井伊万千代として登場する。もちろん小野玄番の息子とユニットを組んだりしてもいない。一人で家康に会いにやってきた万千代を見て、家康が感慨深く「するとおぬしは、この井伊谷の主であった直親どのの忘れ形見か」と言うシーンはあるが、次郎法師直虎や小野正次、万千代の生母については全く言及されないし、松下家はどうなっているのか、井伊家復活が成った時に万千代の名も家康から貰ったのではないかと思うのだが、そのへんはスルーになっている。まぁ徳川家康の全人生となると膨大な数の登場人物で、それぞれの親族背景まで細かくやってる余裕はないには違いないが。
家康がすぐに万千代を召し抱えた(もちろん、草履番とかはスルーですぐに小姓になったようだ)のは、井伊家も昔の松平家と同様に今川に苦しめられたことから、この名門の流浪の子を庇護することにより、井伊谷を中心とする奥浜名一帯の民心を味方につけようという目論見があったとしている。実際、その後の展開の中で、万千代が家康の側近くまめまめしく仕えている様子はたびたび登場する。

そして信康事件は、5巻から7巻にかけて、じっくりと描かれる。
先日のNHK-BS「英雄たちの選択」で、信康事件があまりにも好いタイミングで取り上げられ、信長によって武田内通の「疑いをかけられた」のではなく、岡崎の信康派は、はっきりと織田と縁を切って武田につくことを考えていたと言っていたが、ひょっとしてこれが大河ドラマの予告編かと思ったのだが、森下脚本ではこれをなぞらず、あくまでも織田信長を「魔王」イメージで描いていた(愛撫していた小鳥を次の瞬間、表情も変えずに狙って射落とすエビゾー様にクラクラした視聴者も多かったことだろう)。実際にはこの時点での信長は、そこまで無双ではなかったのではないかと、関東人としては、ここで徳川が織田と手を切って武田と和睦し、北条・上杉も含めた関東一大勢力を構成して天下を取ってほしかったが(幻の夢)。

山岡本の信康事件で何がすごいって、築山御前(瀬名)の憎まれ役ぶり描写が半端ない。
山岡本を通読する気にならない理由の一つは、長すぎることだけでなく、全開の昭和オジサン的女性観にウンザリすることもあるのだが、秀忠の生母となる西郷局お愛の良妻賢母ぶり(「八橋の杜若のような」と形容されている)、結城秀康を生むお万のエキセントリックさ、子は産まなかったが聡明で側室たちからも尊敬される有能な女性リーダー信長正室お濃など、多彩な女性群に対し、それらの美質を全く持たず、自己中で嫉妬深くプライド空回りの結果追い詰められていく築山御前が、結局すべてのインパクトを持っていってしまう描写力はすごい。
女性観の古さとストーリーテリングの手腕とは別物ってことですね(申し分ない価値観でありながら、つまんない小説というのも多々ありますからね)。

山岡本の家康は、1983年の大河ドラマを始め、何度も映像化されているが、なんといっても脳裡に焼き付いているのは扇千景さん(後の参議院議長!)の築山御前である。市川右太衛門・北大路欣也の父子出演で大きな人気を集めたこのドラマはNHKではなく、当時まだNETといっていた現在のTV朝日で、1964-65年の放映、まさに朝ドラ「ひよっこ」の時代で、家庭の録画など夢のまた夢、テレビ局にさえフィルムは全く残っていないというし、Wikiにも出ていない。当然、ごく一部しか見てはいないはずだが、その後多くの女優さんたちによって演じられてきたにもかかわらず、築山御前といえば扇千景以外の名が思い浮かばない。
ちなみに今回の菜々緒さんは、森下脚本のキャラ付けも全く違うこともあり、私の中では築山御前(扇千景)・瀬名(菜々緒)という、全くの別人になっている。
また山岡本では、築山殿の母が井伊家の女性であったことにも触れられておらず、瀬名は「今川太守の姪」となっているが詳しい姻戚関係はわからない。父の関口親永については比較的詳しく語られているのだが。

信康事件にも影響を与えたとされる秀忠の誕生であるが、森下脚本では、秀忠の母は単に「側室」というナレーションで名前も出ず、全くの「その他大勢」扱いであった。
のちの結城秀康の存在も全く無視で長丸(秀忠)が完全に次男と化していたのは、ツイッターとかでもつっこまれていたようだ。濃姫も徳姫も登場しないし。
でもこれは、井伊家と直接関わりがないところはカットという意識的な作業であろう。そのため、信康については、万千代が岡崎に長丸出生を知らせにいく等、苦労して繋がりをつけていたようだ。
井伊万千代と関係の深い徳川四天王はきっちりと描かれているが、榊原康政がかっこよすぎるゾ。とても兎忠と同一人物とは思えないじゃないか!

さて、今後の展開としては、おとわがメル友瀬名を助けようと画策するらしいというのは想定内だが、誰も予想しなかった氏真の登場! 家康からの(三ケ日みかんの絞り汁で書かれた♪)密書が氏真に! 森下脚本の超オリジナルパワーが炸裂だ。これはいったいどう動くのだ? 
山岡版と違い、今川と家康の間にはまだ絆が残っていて、三河勢は100%アンチ今川ではなかったという事のようだ。
それと事件の発端、もともとは、万千代が「寝所の手柄」がらみで、信康の臣下に武田の間者が入り込んでいたことをおおっぴらにしてしまったのが悲劇の始まりとなった?? これは森下脚本のうまいところで、視聴者は「何やってんだ万千代~~」となると共に、未熟者の万千代がこの悲劇を目の当たりにすることにより成長し、また家康と信長の関係が井伊と今川の関係と二重写しになっていくのを予想させる。更には将来的に家康と豊臣秀頼との関係にもだぶっていくのかもしれないが、その頃はもうおとわ=直虎は存在しないので、最終回のイベントが何なのかというのも期待させる所だ。

調べてみると、次郎法師直虎の没年は本能寺の変の年で、変の二か月後くらいに亡くなっているようだ。ということは、本能寺と続く伊賀越えが最終回だろうか。龍雲丸の再登場はあるのか、等など、最後まで予断を許さない展開のようだ。

山岡荘八『徳川家康』の万千代と信康事件


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